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遺伝子に映る自分

 おそらくある自己複製子は化学的手段を講じるか、あるいは身のまわりにタンパク質の物理的な壁をもうけるかして、身をまもる術を編みだした。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らの容れ物、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械(survival machine)を築いたものたちであった。最初の生存機械は、おそらく保護用の外被の域を出なかったであろう。しかし、新しいライバルがいっそうすぐれて効果的な生存機械を身にまとってあらわれてくるにつれて、生きていくことはどんどんむずかしくなっていった。生存機械はいっそう大きく、手のこんだものになってゆき、しかもこの過程は累積的、かつ前進的なものであった。
   * * *
 われわれは生存機械である。
   * * *
 体は、遺伝子を不変のまま維持するために遺伝子が利用する手段なのだからである。
   * * *
 個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなく忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは進み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは彼らの生存機械なのである。われわれは目的を果たしたあと、捨てられる。だが、遺伝子は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ。
   * * *
 問題の全体を整理する一つの方法は、「自己複製子」と「乗り物(ヴィークル/担体)」という用語を使うことである。自然淘汰の根本的な単位で、生存に成功あるいは失敗する基本的なもの、そして、ときどきランダムな突然変異をともないながら同一のコピーの系列を形成するものが、自己複製子と呼ばれる。DNA分子は自己複製子である。自己複製子は一般に、これから述べるような理由によって、巨大な共同の生存機械、すなわちヴィークルの中に寄り集まる。われわれがいちばんよく知っているヴィークルは、われわれ自身のような個体の体である。したがって体は自己複製子ではない。それはヴィークルなのだ。この点はこれまで誤解されてきたから、とくに強調しておかなければならない。ヴィークルはそれ自身では複製しない。その自己複製子を増殖させるようにはたらく。自己複製子は行動せず、世界を知覚せず、獲物を捕らえたりあるいは捕食者から逃走したりしない。自己複製子はヴィークルがそういったことすべてをするように仕向ける。リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」より

きょうは運動会。
娘のナツハ(仮名)は6年生なので、
父親として娘の運動会を見に行くのはこれが最後。
いままでの運動会よりずいぶんのんびり見物できたのは、
なんでかっていうと、
>今年はビデオ撮らんといて
って
ナツハに言われたから。
娘は最近、
写真も撮らせてくれません。
で、
親の務めみたいに勘ちがいして、
いっしょうけんめい写していたビデオを、
今年はやめた。
駆けっこならともかく演舞モノとかになりますと、
どこにいるか見つけられないし、
ずっと液晶画面から目が離せませんから、
撮影するのって大変だったんですよね。
神経すり減らしながら撮っても、
あとでほとんど見ることないですしね。
楽になれてよかった。
と、
それはさておき、
娘の小学校生活もいよいよ残りわずか。
早いもんです。
ナツハは3年生のころ、
寮のある中学校に入りたいと言い出しまして、
はじめはどこまで本気なのかよくわかりませんでしたが、
今日までその意志を曲げず。
女子が入れる全寮制の中学校なんて近隣にはなくて、
家から片道3時間かかるへんぴなイナカにあるとわかりました。
入試もそこしか受けないつもり
──専願っていうんですね──
のようです。
せっかくこんな便利な都会に住んでいて、
進学先はよりどりみどりで選べるっていうのに、
イナカ育ちのわたしにしてみたらとんでもないヘソ曲がり。
さすがわたしに似て頑固で一本気。
独立心旺盛なところもそっくりです。
だからもうじき家を出ていく。
想像していたよりずいぶん早い別居がはじまります。
息子のミチハルは母親に似たんですけども、
どうしたもんだか娘のナツハはわたしに似た。
姉と弟でぜんぜんちがうんです。
笑えるくらい。
弟は生まれつき色白なのに、
ねえちゃんは別に外でスポーツしてるわけでもないのに色が黒い。
申し訳ないくらい、
>おまえはオリエンタルビューティー!
って、
おだててますけど。
そりゃ色白は七難隠すっていうくらいですから、
黒いより白いほうがよかったんじゃないでしょうか。
そのうえ
>このごろアゴが大きくなってきたー!!
>どうしてくれんのー!

って叱られて、
ごめんごめんと謝ってはみても、
時すでに遅し。
食べ物の好みも、
びっくりするくらいわたしに近い。
息子は真反対といえるくらい、
辛いものも脂ものもグロテスクなものもダメ、
たぶん酒も飲めないでしょう。
ワインゼリーの臭いを嗅いだだけで酔ってしまう嫁に似たとすると、
きっと一滴も飲めません。
ナツハはすでに、
肉でも魚でもガツガツいけますし。
スパイシーな味付けも大好きですし、
まちがいなく上戸でしょう。
DNAってブラボーでグレイトです。
いっしょに住んでるので、
口のきき方とか態度とか考え方とか、
親を見て似てきたんだともいえますが、
これだけ姉弟で差があると、
これはやっぱり遺伝子の仕業だと実感せずにはいられません。
いちばん驚くのは、
ソファーにふんぞり返って寝そべる娘の態度です。
似てるという以上に
同じ
なんですよね、
わたしと。
>わっ、
>こいつ、オレや。

と、
思わず笑ってしまうほど驚くことがしょっちゅうあります。
申し訳ないけど嬉しくなる瞬間ですね。
客観的に見えていないから気づかない部分まで、
きっとわたしがいっぱい詰まっている。
いったい人って、
──人だけじゃないけど──
どのくらい遺伝子の支配を受けているんでしょうね。
脳がまだ何にも判断できないころから、
記憶も何にも残ってなくても、
ちゃんとオッパイ吸って生きてたんですもんね。
ということはつまり、
たいしてえらくもないくせにえらそうにふんぞり返るわたしの姿勢も、
もともとわたしの受け継いだDNAに仕込まれていたもので、
必ずしも本人のマインドを映したもんではなかった
ってことになるわけなんですがな。
そう考えるとちょっと納得できます。
心が謙虚に反省してるときでも体はふんぞり返ってる理由とかね。
娘のしゃべり方、好きな科目、集めているもの、利き腕、
音楽の趣味、筆跡のクセ、ノートの使い方‥‥
教えてないのに生まれながら知っていたこと、
できていたことがいっぱいあります。
そこから過去へ、
DNAを逆にたどればわたしの組成が透けて見えるわけなんですよね。
わたしやあなたの
向かう先

決めているのは誰?──何?──でしょうね??
どっちでもいいことのようですが、
実はめちゃめちゃ大事でどっちでもよくない話。
とかくわたしたちは自分ではないものを自分だと思いちがいしているところに、
心がウロチョロしてしんどくなる原因があります。
自分はああしようこうしようって考えて、
物事を決めていく。
そのときの
意志
って
なんですか?
どっから出てくるんです?
いっぺん決めたことを決めたように実行できないのはなんでなんですか。
ふだんわたしたちは、
自分の身体や、自分の思考や感情などを自分だと知覚していますよね。
肉体は目に見えますし、
血が流れていて体温も感じられる。
ものすごくまっとうでわかりやすいんですけども、
それを反対に、
体や心を自分じゃないものとして見ろやなんて‥‥
アタマおかしいんちゃいますか??

ふつうは思いますわな。
 しかし、それが段々わかってくるようになるんですよ。自分の命のほんとうの主催権をもっているのは肉体じゃなかった。心でもなかった。見えない気体が自分の命の主催権をもってるということがわかる。この気体を日本語では霊魂といってます。英語では、スピリットといいます。これがほんとうにフウゥとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然と心のなかにこの気持ちがはっきり自分でキャッチすることができるようになります。
 そうすると、今まで知らないこととはいいながら、何とまあ、のべつまくなしに消極的な観念や思想の虜となって夜もろくろく安眠ができずに、そのため活力を減退し、心ならずも健康や運命まで悪くしていたという自分の愚かな生き方が、我れながら実におかしくもあり、またくだらなくもありというふうに、しみじみと考えさせられてくるようになるんですよ。そうならないと嘘なんです。
中村天風師「成功の実現」より

霊魂だスピリッツだっていうような解釈になじまない人は、
ドーキンスさんの本を読んで遺伝子の存在を描いてみたらどうでしょうか。
DNAってのは4文字で書かれた言語(構成単位がたった4種類)なんだそうですが、
そこに使われている単語はすべて4文字(A、C、G、T)のうちの3文字なんだそうです。
しかも人間だけじゃなしにあらゆる生物で共通している‥‥という。
ある生き物が保有するDNA情報のすべてをゲノムといいますが、
人間のDNA文書は30億文字
これの文字配列をすべて解読したぞ!
と、
アメリカの大統領が宣言したのが2000年6月26日ですから、
つい最近のできごとなんですよね。
こんなもんが解読できなかったころ、
ていうか、
存在すらもよくわからなかったころは、
なんだかわからないけど自分じゃない何者かが自分の中にもうひとりいて、
そいつが大きな裁量権を握っているみたいだぞってことで、
それを神さまとか魂とかいうような、
別格に偉大な存在として位置づけたんだろうっていうことにしてしまいましょう。
そうでもこうでもして、
自分の体や心が自分自身じゃないってことを自分の知覚に叩きこむ。
なんせ30億文字ですから、
解読できたところで実体は空気みたいなもんです。
そんなことより肝心なのは、
命が永遠に進化向上を反復継続していくための宇宙の意志がそこに確実にあるってこと。
ほんでまあとにかく、
わたしもあなたも、
実体ははっきりわからないけど確かにある宇宙意志によって生かされています。
その大きな意志にくらべたら、
人間の脳なんてオモチャみたいなもんなんですけども、
ただ、
他の生物よりちょっとは性能がいいだけに、
かえってややこしいんでしょうね。
あるじの言いつけを守らずに自分勝手に思ったり考えたりして、
頼みもしないのによけいなばっかり生み出しやがる。
 意識とは、実行上の決定権をもつ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考えることができる。脳は生存機械の仕事の日々の営みにたずさわっているばかりでなく、未来を予言し、それに従って行為する能力を手に入れている。脳は遺伝子の独裁に叛く力さえそなえている。たとえば、できるだけたくさん子どもをつくることを拒むなどがそれだ。しかし、後に述べるように、この点では人間は非常に特殊なケースなのである。
 これは利他主義や利己主義といったいどういう関係があるのだろう? 私は、利他的であるにせよ利己的であるにせよ、動物の行動が、単に間接的であるというだけでじつは非常に強力な意味における遺伝子の制御下にあるという見解を確立しようとしている。生存機械と神経系を組立てる方法を指令することによって、遺伝子は行動に基本的な力をふるっている。しかし、次に何をするかを一瞬一瞬決定してゆくのは、神経系である。遺伝子は方針決定者であり、脳は実施者である。だが、脳はさらに高度に発達するにつれて、しだいに実際の方針決定をも引き受けるようになり、そのさい学習やシミュレーションのような策略を用いるようになった。どの種でもまだそこまではいっていないが、この傾向がすすめば、論理的には結局、遺伝子が生存機械にたった一つの総合的な方針を指令するようになるであろう。つまり、われわれを生かしておくのにもっともよいと思うことをなんでもやれ、という命令を下すようになるであろう。
リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」より

ドーキンスさんの言ってることがほんとうかウソか、
それはどっちでもいいんですけども、
あなたの脳がどれだけ立派でも貧相でも、
それはあなた自身ではない。
あなたの命の裁量権を握っているのは、
宇宙の進化向上の大元にあるもので、
造物主と呼んでもいいし、
やっぱりというコンセプトがいちばんしっくりくるならそれでもいい。
なんせ、
さからってもしゃあないものです。
そっちを信頼するほうがいい。
たかだか100年足らずしか生きていられないこの肉体と、
それの附属物にすぎない心なんかをアテにするより、
宇宙の意志を受け入れて、
全面的に感じながらひとつになっていくほうがいい。
宇宙とつながるっていう、
その感触をつかむことが、
命まるごとしあわせにくるまれて心地よく生きるコツ
‥‥ですからな。
ほんでそのコツをつかむためのコツ、
コツのコツがまさに、
自分の身体を自分だと思わず、
単なる道具だと知覚すること
なんです。
冒頭の引用にある
>われわれは生存機械である。

一文に触れたとき、
あ、これは真理だなとピッと来ました。
宇宙の意志を実現するための手段として、
われわれは利用されているだけ。
「されている」と受動的に表現をすると、
なにやら自分ではない他者に操られているかのような忌まわしい響きがありますが、
利用している側こそがほんとうの自分、
すなわち真我
たとえや言いまわしは微妙にちがっても、
この心や肉体は手段としての容れ物であり、
衣服のようなもの、
あるいは乗り物、もしくは家屋のようなものなのだ‥‥と、
決めこんで実感してハラに落とすこと。
天風先生は、
>自分の腹が痛いのを、
>隣のおばさんの腹が痛いように感じなさいっていうんだよ。


仰ってます。
えーっw(゚o゚)w
そんなムチャなーっ!!!

って
泣きたいくらい、
この特定意識の体得は究極の難題なんですけど、
あなたの命の操縦桿を握る遺伝子の偉大な意志がまざまざとイメージできるくらいになれば、
これができるようになってるんじゃないでしょうか。
r(^ω^*)))
小学校3年の娘が、
家を出て寮に入りたいと言い出した。
それはの意思決定だったんでしょうね。
親が負担するヘビーな学費のことなんか一切考慮せず、
メリットもデメリットも計算できるはずのない子どもが、
なぜか毅然と下した決断です。
反対なんかするもんですか。
最高級の敬意をもって拍手喝采です。
ナツハはすでに身長も体重も母親を抜いて大柄な上に、
態度がそんなんで色が黒いもんだから、
落ちついていて大人っぽいというのを通りこして、
ふてぶてしく見える。
>おい、オッサン、
>オレかおまえは。

って冷やかすと、
>オッサンちゃうわ!
って、
その吐き捨て調の言い方がまたわたしに似てるので、
笑ってしまいます。
でもときどき、
新しい洋服を買ってもらったときなんかに、
朝早くまだ寝てるわたしの枕元へ、
>パパ見てぇ~
>かわいいやろ

って、
着替えて見せに来る。
そういうところは小っちゃいころと少しも変わってなくて、
かわいくてかわいくて胸がキューンてなります。
息子とはしょっちゅういっしょにお風呂に入って、
中味は他愛もないことばっかりですけどけっこうコミュニケーションの時間は取れる。
娘と話すのはもっぱらママばかりで、
ふだんわたしとはほとんどコミュニケーションがない。
けどおもしろいことに、
娘の考えていることのほうがよくわかるんです。
きっとこう答えるだろうって感じで、
手の内が読めるっていうか。
思考が似ているからよく伝わる。
来年から寮に入ってしまえば、
ますます会話が減るし、
中高一貫校なもんだから6年間も離れて暮らすことになります。
きっと寂しいんでしょうけども、
いまはまだ想像できません。
──運動会の話に戻ります。
全校生徒を代表して、
宣誓の言葉をナツハがやりました。
そこちょっと、
ビデオ撮りたかったかな‥‥。
5年生と6年生による紅白対抗の騎馬戦は、
運動会の実質的なファイナルイベントで、
例年なかなか感動的な見せ場があります。
小っちゃい女の子が、
自分よりはるかにでっかい男の子と正面から取っ組み合って、
力で押されてのけぞりながらも一瞬の隙を突いて相手の帽子を掠め取るシーンは圧巻。
ワーオ!
思わず手に汗握ります。
いつかこんな種目も、
野蛮な競技だし怪我する危険性が高いからやめさせろと、
どっかの父兄会が言い出すかもしれませんけどね。
あー
ナツハの出番だ。
ふだん運動してないナツハは、
おデブさんじゃないけどぽっちゃりさんで、
俊敏は動きはできません。
いつのまにかうしろからまわりこまれて、
あれれっていう感じで帽子取られちゃいました。
あー残念(T_T)
キレたら強いのが親譲りの才能のはずですが、
闘争心に火かつくまえにやられてしまっては‥‥
ええとこなしのまま最後の騎馬戦敗退です。
 心や肉体というものは皮相的に考えると人間そのものであるかのように見えるが、実はそうではなく、判り易くいえば心や肉体というものは、人がこの世に活きるのに必要ないろいろの方便を行うための道具という関係を、人間それ自身に対してもって居るものなのである。
 哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の生存と生活とを確保存続せしむるに必要とする不可分的生命附属物と註釈される。
 であるから心や肉体は、人=自己ではなく、まして又それが更に人=自己の本体ではないのである。
   * * *
 先ず「真我」というものが、諸君の目に見える肉体ではなく、その肉体を超越したものであるという信念を作為するために、真我と肉体との関係を、恰も肉体とその肉体に着けて居る衣服との関係と同様のものと思量する事なのである。
 即ち判り易くいえば、肉体に衣服を着て居るのと同様に、真我は肉体という仮衣を着けて居るものであると思量するのである。
 なおもう一つの考え方は、真我は肉体という一つの家屋に、その生命を存続させる便宜上宿って居て、一般の家屋の如くに肉体を使用しているのであると思量するのもよい。
中村天風師「研心抄」


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