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ぬるま湯ほど恐ろしい楽園はない

足るを知り、足らずを知る。
──これを、
長いあいだサボってしまった自分に対する戒めの言葉としたい。
もうじゅうぶんしあわせだからといって、
それ以上の努力を止めてしまう。
安定の上にあぐらをかくとでもいうのか、
ちょうどこれは、
健康なときに不摂生をして身体を壊し、
病気になったら反省し、
そのときだけ摂生に努めるようなもの。
自分がハングリーだったころは、
ほどほどのしあわせに満足してのんびりしている階級を見下して、
あたかもカメをあざ笑うウサギのように、
>そんなのんびり歩いていたら、
>すぐに追い抜いちゃうよ

って。
でも、
いざ自分がしあわせに浸ってみると、
もうそこから一歩も動けない。
居心地がよすぎて、
ぐうぐう居眠りしてしまいました。
お尻が腐ってしまうくらいだらだらしてしまった。
じゅうぶんしあわせだからといって、
それで終わりではなかったんです。
それは、
もっともっとと欲ばることではなく、
まだだまだだと自分に鞭打つことでもない。
「もっと」でも「まだ」でもなく、
そこからさらに吸収して伸びていこう、成長しようという、
進化向上の原動力を止めてしまわないということ。
そこで終わりじゃないことを知らないだけの自分

気づくべきでした。
>こんな狭い風呂はいやだということに気づこうにも、
>風呂とはこんなものだと思っている。

──これを、
自己満足のパラドックスと呼んでいいでしょう。
ほんとうの極楽を知らないだけ。
知らないからこのへんで満足できる。
足らずを知る
とは、
まだ終わりじゃないことを知ること。
いや、
終わりなんてないことを知ることか。
天風先生もこうおっしゃってます。
完全な自己統御はゆめ油断なく。これでいいというときはないんですよ。自分を磨くのに、ターミナルはないんだから。ここが終点ですというところはありゃしないもの。自己陶冶なしではどんなことをしても一生を通じて幸福、いわゆる健康も運命も完全だという、人間の当然得られる幸福というものをわがものにすることはできない。「しるべ」2012年10月号から

人生の中だるみを1分だけ反省したい

自己陶冶「じことうや」と読みます)って、
40すぎまで読めなかったし意味もわからなかったんですけど、
いまどきの言葉でいうと「自分磨き」みたいなことですな。
「陶」というのは焼物を造ること、
「冶」というのは金属を精錬すること、
だから自己陶冶っていうのは、
人格を練って焼いて研いで磨きあがていこうという意味です。
 多くいうまでもなく自己陶冶という事は、自己の人格を向上せしめる事で、真人生を獲得しようとする者に何よりも必要な事柄であることは、何人にもその常識となっている事と信ずる。中村天風師「研心抄」から

──これをサボってしまいました。
気がついたらもう同じことを
何年もくりかえしてきたわけです。
安定していた

いえば聞こえはいいでしょうけども、
休みすぎた。
浦島太郎になってしまった気さえする。
悔やむとしたら何年間にもわたる自分の心がまえについてであり、
生活態度を全面的に悔やまないといけなくなる。
しかし、
それは許されてません。
悔やむことは止められているんです、
先生に。
だから
反省するにしてもせいぜい1分で切り上げたい。
気持ちをパッと、
積極的のほうへ取り替えてしまおう。
自己陶冶がきょうのテーマです。
夢が叶ったらナニするんですか?

夢はぜんぶ叶いました。
10代、20代に見た夢、
自分は何がほしかったか、
どんなふうになりたかったか、
ぜんぶはっきり覚えています。
切実な願望で、
大願、悲願です。
それもこれも、
ぜんぶ叶ってしまいました。
だからもちろん、
めちゃめちゃラッキーです。
みなさんもそうでしょうけど、
夢が一個しかないってことはないでしょう?
大きな夢から小さな夢まで、
いろいろあると思うんですけども、
>これが実現したらもう死んでもええわ
とか、
不謹慎ですけども、
若いころそんなこと口走ってた記憶もおありでしょう。
夢を、
他人にしゃべるタイプの人もあれば、
日記に書いてたりとか、
自分の胸にしまいこむタイプの人もあるでしょう。
女性の方にありがちな夢ですが、
本命の男性からプロポーズされた瞬間とか、
天にも昇る気持ちだというじゃないですか。
夢が叶うってすばらしい。
わたしの見た夢は、
40代の半ばでぜんぶ叶いました。
もっときちんというと、
20代で半分、30代で9割、
40代でひとつだけ残っていた最後の一滴が、
今年になってから叶ったかな。
もうすぐ55っていう、
これは微妙な年齢ですね。
一本気なところがありまして、
まわり道とかできない性分ですから、
>夢は叶ったぞ、
>もう何もないよな、
>いい人生だったよな、

と、
ながーくかみしめて確認してからでないと、
次の行動が起こせません。
ひとつ叶ったから、
ハイ次の夢どうぞって具合にポンポンいかない。
なんなんでしょうか、
この感覚。
次の夢

描けないまま、
10年以上たってしまったわけです。
成功したらそれで終わりですか

>あの人は成功してる人だ
と、
世間が認める成功者にもいろんなタイプがありますね。
成功してるからって思い上がらず、
偉そぶることもなく、
地に足のついた雰囲気で、
実直に努力し続けているタイプ。
成功してることを鼻にかけ、
思い上がって調子に乗り、
金づかいは荒いし態度はデカいし、
ああよかったですねおめでとうさんっていうタイプ。
成功してるとかしてないとかは無頓着でそっちのけ、
ただ仕事が好きで好きで、
人と会うのが好きで好きで、
動きまわっているのが楽しくてしょうがないってタイプ。
わたしは、
まさか自分が、
ちょっとくらい成功したからって、
歩みを止めてしまうタイプだとは思いませんでした。
自分が休んで怠けてしまうなんて、
まったくの想定外。
生きてるだけで丸儲けって思ってるわたしですから、
人間は生まれもって幸福なのがあたりまえだと思ってますし、
どう転んだってしあわせなんで、
しかもそのうえ夢はぜんぶ叶ったんですから、
もうこれでいいじゃないのって感じで、
休もう、楽しよう、
もっと遊ぼうっていう気持ちが出るのも自然でオッケーなんですが、
それにしても、
ずいぶん長いことぼんやり休みすぎた。
>成長って、
しないといけないもんなんだろうか?

と、
真剣に迷ったこともあります。
なりゆきまかせでも成長できるんだから、
ただ流れに身を委ねるような進化向上があってもいいんじゃないか
と、
そんなふうに考えたりもしてました。
人間の進化向上には終わりがない

でもやっぱりね、
サボったらあきませんで。
ほどほどでいいんじゃないですか
とか、
いってたらあきませんわ。
もういいじゃないですかじゃなかったんですよ!
やっぱりね。
先生の言葉にこういうのがあります。
 自己陶冶を志さなければ、人間の一番大事な、人間そのものの人格というものがちっとも向上しないんですもの。何年たってもそのままなんだもの。そうすると、その当然の結果として、もっともっと自分の人生をプラスにする完全な資格と条件は、自然と消えちまうんであります。そしてそれに代わって繰り出すのが、病であったり、不運であったりという、苦い形でもって、あなた方の人生をいじめ出すわけだ。ねえ。
 ところが、そう言われてみりゃ、なるほどなと感づくかもしれないけど、言われない限りはですよ、うぬぼれていない人でも、自分は、たいした、間違った生き方はしていないと思うことが、それが非常に自己向上を妨げている。自分で考えて、後ろめたいようなことを考えたり思ったりしたりしなけりゃ、格別、大して間違った道を歩んでないと、こういうふうに考えてるのが、どうも現在の人間の人生に対する意識じゃないんでしょうか。
 つまり、自分を磨き上げよう、研ぎ上げようという気持ちがない。たまには出るけれども、それがただ一時の高揚した気持ちでやり出すから長続きしないんです。
     * * *
 あなた方がみんな私と同じようにね、死ぬか生きるかの大病を長年患っていたら、私が忠告するまでもなく、一生懸命になるでしょう。それは、これも何遍か言った「溺れる者は藁をもつかむ」のたとえでね。まだ溺れるようになってないもんだから、藁をつかもうって気にならない。藁をつかもうという気が、結局燃ゆる情熱なんだ。
「しるべ」2012年9月号から

──けっきょくこの言葉から気づかされることは、
自分が長いこと、
ぬるま湯に浸ってたってことなんです。
気持ちよすぎてどこにも不自由を感じない。
なすがままなされるがまま、
あるがままの快適さ。
満足の落とし穴。
だいたい、
いままであんまり自分の「人格」というようなものを基準に、
幸福や成功を計ったことがない。
結果として現象面にあらわれた、
人間関係が良好だとか収入がいくらあるとか、
娘と息子が機嫌よく育っているとか、
自分の心がどれだけ落ちついていられるかとか、
そんなような事象で判断する癖がついてしまっている。
まさに、
頭にタオル乗せたカエルが大の字になって仰向けになって、
ぬるからず熱からずの温泉に目を細めてブカプカ浮いてる絵面。
ゆでガエルの一丁あがり。
このままじゃ、
気持ちよくボケてしまうでってことなんです。
ハングリー精神って死語ですか?

なにか思い切った挑戦をやろうという気にならず、
したがってリスクを負わない。
これが、恐ろしい。
少しずつ何かが、
崩れ落ちていく兆候はデータとして示されていたのだけれど、
取り越し苦労は禁止されているのだし。
幸福の罠ってあるんじゃないでしょうか、
どこから眺めてみても、
自分ってしあわせじゃないかと思える。
現に何も困ってないのだし、
満足している。
もし20代なら、
>この安定がいつまで続くかわからないんだから
って、
ガツガツがんばるかもしれない。
しかしそれが、
もう60近いジジイともなると、
>この歳でこのステイタスならいいじゃないか
となる。
いわゆる順風満帆ってやつのようにも見えて、
自分のステイタスに自分でいちゃもんをつけにくい。
>なに言ってやがんでぇおめぇ、
>満足しちまったら人間おしめぇよ!

──みたいな精神性が、
昭和にはまだ残っていたはずなんですが、
てんと聞かなくなりました。
ハングリー精神
ってやつ。
かっこ悪いんでしょうね。
満たされているのがあたりまえの平成じゃ、
ハングリーなのはよっぽど調子が悪い人と思われかねない。
腹を減らしてるってことはリアルに充実してないってことで、
それはつまり負け組なわけで、
手近なところで満足を調達してごまかすんでしょう。
一生遊んで暮らせるカネがあってもなお働く

何億円もの大金を横領して、
南の島国へ高飛びして何するのかと思ったら、
次から次と女を買い漁ってギャンブルに狂って、
けっきょく捕まったやつがいましたけど、
ひとつの生き様としてはわかりやすいですよね。
その系統の人たちって、
しゃべっててもつまらないですけどもね。
ほんまにつまらん。
おカネの話しかできない金持ちって、
アホみたいですよ。
金持ちがするおカネの話を、
いつまでもうっとり聞いてる貧乏人はもっとアホみたい。
金持ちにあこがれただけで金持ちになれるならいいけど、
あこがれるだけではなれませんのにね。
もし一生遊んで暮らせるカネがあったら、
あなたならもう働きません?
汗水たらさない?
そんな大金、
持ったことないとしても想像してみてほしいんです。
なんのために仕事をするのかって、
考え直すヒントにもなりますから。
持ったら使ってしまうタイプって、
けっこういますけど、
わたしにはよくわからない神経です。
でも、
持ったらサボってしまうタイプだったとしたら、
目くそ鼻くそを笑う
ってやつ。
反省は1分だけしかしませんが、
わたしは恥ずかしいです。
なにをボケてたんだろうかと。
たいしてうまくいってたわけでもないのに、
勘違いをしてしまったのか。
それとも疲れてたのか。
自分でも気づかない疲れがずどーんとたまってて、
しんどいなーしんどいなー、
あーしんどいなーと、
それがふと楽になったもんだから、
無自覚に気が抜けてしまったんでしょうか。
>まちがった生き方はしてない。
>どこもおかしくない。

これが、恐ろしい。
きっとみなさんの中にも、
失恋やら自己やら病気やらビジネスの失敗やらで、
不意に、
奈落の底に落とされた体験をされた方があるでしょう。
衝撃は不意にやってくる。
でもそれは反対に、
とてもありがたいことなのかもしれないですよ。
パラドキシカルですけども、
そこ、
感謝したほうがいいかもですよ。
 かりそめにも真理に順応して完全な人生に生きようとする我々は、どんな場合にもですよ、人生の幸福というものを安易な世界に求めてはいけないということ、言い換えれば、無事平穏を幸福の目標としないこと。
 だからしたがって、苦悩を嫌い、それから逃れたところに幸福があると思っては断然いけない。というのは、そういうところに本当の幸福というものは絶対にないからなの。
     * * *
 本当の幸福というものは、健康や運命の中にある苦悩というものを乗り越えて、それを突き抜けたところにあるんだ。
     * * *
 本当の幸福というものはね、なんぞ図らん、凡人の多くが忌み嫌う苦悩というものの中にある。すなわちその苦悩を、わかりやすく言えば、むしろ楽しみに振りかえるというところにある。
 もっとも普通の人は、苦悩を楽しみに振りかえるなどと言うと、「そりゃとてもたやすくできるもんじゃない」と言うでしょう。しかしです、我々は「観念要素の更改法」というのを知ってる。したがって、苦悩を楽しみに振りかえるということをさして難しいこととは思いませんわ。
 それは、苦悩を楽しみに振りかえるというのは、健康や運命の中に存在する苦悩を乗り越えて、突き抜ける強さを心に持たせることだということを知っているから。しかも、その頼もしい心を、自己の意志でつくる方法を我々は知ってるんだ。
中村天風師「真人生の創造」から


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