HOME > 心のお手入れをサボらないために > 5-さとり > ほんとうの自分とは


▼スポンサーリンク▼

 

ほんとうの自分とは

わたしは別に、
我とは何ぞや?
ってことを、
詳しく知りたかったわけではありません。
どっちでもいいって話で済ませられるもんなら、
知らないままでやりすごしたいです。
いかにもめんどくさいし、
むずかしそうで。
ただ、
自分の味わう「苦」というものを、
なしにしたかったんですね、
わたしは。
「したかった」と過去形でいうよりも、
なしにしたい
と、
いいなおしましょうか。
自分の心が、
振りまわされたり引きずられたりチクチク刺されたり、
そういうのをなしにしたい。
ぜいたくかもしれませんけど、
ゼロ

したい。
自分の心に一切の苦しみを味わわせたくない。
たっぷり楽しみを味わわせてやりたい気持ちもありますけども、
それより先に、
苦しみをゼロにしたいほうが強い。
その方法を突きつめていくと、
この、
ほんとうの自分って何なんだろう?
っていうところが、
どうしても避けて通れないってことがわかってきたんです。
知らなくても困らないが知らないではおられない

あなただってそうですよ。
ほんとうの自分というものの正体がわかっていて、
もしいまのあなたがほんとうにほんとうのあなただとしたら、
あなたは「苦」というものから完全に離れていられるはずです。
そうじゃないとしたら、
つまり、
まだまだ人生に「苦」というものが残っているとしたら、
あなたは
ほんとうのあなたではないあなたをあなただと思い違いしてる人です。
さぁ‥‥
ややこしくてめんどくさいですよ、
きょうの話は。
おまけに、
とかとか、
とかとか、あるいはとか、
そういう宗教チックな用語が何回も出てきますので、
論理的でないというか、
非科学的で根拠に乏しい印象を受けられるかもわかりません。
ま、
このサイトに何回か来られた方は、
わたしが理屈っぽくて素直じゃないことはすでにおわかりと思います。
かっこよくいえば論理的思考の持ち主なわけですが、
なんせ理屈が通らないことは受けつけないタイプです。
しかし今回ばかりは、
理屈が通るのを待っていては時間切れになりそうで、
もう観念的に飲みこんでしまいました。
心の混乱を、感情のブレを、
徹底的にクリアにしたい人にとっては、
科学よりも哲学よりも、
無条件に大切なことがありますね。
ほんとうの自分とは何かなんて、
どっちでもいい人にとってはほんとうにどっちでもいい話。
知らなくても困りません。
けれど、
怒ったり恐れたり悲しんだり、
降りかかる事象に心が振りまわされたり引きずられたりしてしまう、
そんなわずらわしさをゼロにすることと、
ほんとうの自分って何なんだというのが関わっているとしたらどうでしょう?
肉体の痛みさえも、
消せる手段があると聞いたら、
わたしそれはどうしても知っておきたかったんです。
いままで知っていた方法は、
ストレスに対処する方法にしてもなんにしても、
心をポジティブに強くするとか、
心が受けたダメージをやわらげるとかリカバーするとか、
心を関わらせず平静を保つとか、
どこまでも心、心、心で、心が本位。
心がしんどいんですから、
心から考えて心を手当するのは同然です。
ところがこんどのこれは、
そもそも心は自分ではないと切り離し、
自分の本体は絶対の存在ではじめからなんともない、
何も触れさせもしないというようなことですから、
苦しいとか苦しくないとかいう土台の位相がまるでちがいます。
あとで述べますが、
訓練の方法はわかっていますから、
あとはやりつづけるだけです。
ほんとうの自分とは

理屈はわりと早く「わかる」んですが、
こればっかりはわかってもしょうがない。
ただ「それである感じ」

どっぷりとくるまれないとしょうがない。
「それ」とは、
こちら側の自分から見たほんとうの自分らしきもの
です。
>ほんとうの自分とは○○○なんですよ
と、
だれかに教わっただけでは、
そのときだけパッと頭が晴れた気持ちになれても、
それだけじゃどうしようもない。
わかって出会えて、
連絡が取れて行き来ができてつながって、
ひとつになることができて、
それ自体で「ある」ことができる。
自分が「それ」なんですから、
「それ」「ある」のがもともとあたりまえで、
こっちの自分から見てあっちにいることがおかしい。
あっちに行ってみたら、
なるほどこっちはほんとうの自分ではないなと、
わかる感じ。
こっちからあっちに転移が起こる‥‥
みたいな。
けれど、
ほんとうの自分というわりには、
あっちには何もありません。
「空」があるだけで何もない。
何もないのと「空」があるというのはちがうんですけど、
この感じを、
もし仮にわたしが完ぺきに知っていたとしても、
それをあなたに伝えることは至難でしょうに、
ましてやかじりかけの断片情報。
かなりおかしな伝え方になるでしょうね。
おかしいと思ったら、
このへんでもう読むのをやめといてくださいね。
クンバハカを先に

「成功の実現」に次のような一節があります。
 そこで、やむにやまれず、変則的に心身統一法の会得と、その会得に関連する理解を与えることを最初にして、それから「我とは何ぞや」という重大な問題の決定を行っているわけなんです。
 けど、どこまでいっても、これは変則的なんです。厳格にいえば、「我とは何ぞや」がほんとうにわかってからでないと、人間の生命にからまる幽玄微妙の消息というものは、聞かされてもハハァーンと、ある程度まではわかった気分になりますが、ほんとうの自覚にはいたらない。わかった、というだけではいけないのであります。
中村天風師「成功の実現」から

──ここ、
なるほどなぁ
と、
100回くらいうなずいてしまうとこなんですが。
「成功の実現」はかれこれ13年も前に読んで、
まさに2つめの命をもらえたと思っているくらいですから、
それはもう熟読も精読も、
一言半句を諳誦するくらいの勢いで舐めまわすように読みましたが、
この変則的な順序の意図がわかってきたのはようやく最近のことなんです。
さすが天風先生がすべてお見通しのとおり、
やはり「我とは何ぞや」の理解はあとまわしになりました。
知らなくても、
生きていくのに何の不自由もないからです。
ほんとうの自分とかウソの自分とか、
どこからどこまでがほんとうで、
いつからいつまでがウソで、
じゃあいまここにいる自分はほんとうかウソか?
──とか、
むずかしかったしややこしかったので、
あとまわし。
とにかくもうひとりの自分が別にいるのだな‥‥
くらいがわかれば、
あとはそれよりも先に、
目の前にある現実生活のごちゃごちゃを解決することが優先ですから、
てっとり早くその方法を、
つまり、
観念要素の更改だ、積極精神の養成だ、神経反射の調節だ、
を、
先に習得して楽になりたいということになったわけです。
それだけで、
もうじゅうぶんでした。
人生のステージを、
2段も3段も一足飛びに上げられるんですから、
もうじゅうぶん。
所得が2倍、3倍に増えると生活パターンが一変してしまうのと同じことで、
心がもうすっかり入れ替わると、
何がどうなってもだいじょうぶな身分になってしまったかのような錯覚に陥ります。
夢はかなっているし、病気は治っているし、
所得は増えているし、
家族みんなしあわせでまわりの人間関係も良好。
他人がどう思おうが、
どこにも何もケチのつけようがない。
まったく、
ぬるま湯ほど恐ろしい楽園はないのです。
>もうええわ。
>だいたいわかったし、
>このへんでじゅうぶんやわ。
>またそのときがきたら続きをやったらええわ。

と、
これも先生が予言されているとおり、
あまりにも価値高いものを、
カンタンに教わりすぎたたために、
油断というものがはからずも発生してしまい、
「特殊の心的修練」の継続がおろそかになってしまうんですね。
だから、
まだクンバハカも何かようわからんわって方は、
ここでまわれ右されたほうがいいのかな

思います。
状況がややこしくて心がしんどくなりそうなとき、
わたしの場合ですと、
かなり大切な原則を応用して措置しますので、
9割方はこれで乗り切れてしまいます。
毎日が不平不満だらけな人生を送っているという方でも、
この原則を知っているだけで、
心の粗大ゴミはおろかチリ、ホコリにいたるまで、
とりあえず内面をピッカピカに磨くことはできるでしょう。
しばらくするとリバウンドが来るんですけど、
それも平気で何回も乗り越えられます。
先にそういうプロセスを踏まれたほうがよろしいです。
何も問題なし
のようで、
ほんとうは問題あり。
そんな壁に突きあたってから、
もう1回ここに来られたらよろしいのではないかと。
ほんとうの自分の正体

結論はハッキリしてます。
心でも肉体でもない、
自分のほんとうの正体は目に見えない気体です。
少しずつ言いまわしが変わったり、
前後の脈絡もちがって聞こえることがありますけど、
真実はひとつ。
理屈っぽいわたしは、
聞いてる側の理解を促すために先生が「便宜上」お使いになったやさしい語彙と、
ほんとうに意図しておっしゃられた真理を、
混同しないようにがんばって整理するように努めましたが。
 人間は心も体も生きるための道具。いちばん尊いのは霊魂というひとつの気体。これがあなた方の正体なの。
   * * *
 もともと体が気をしょって出てきたんじゃなく、気が生きるために体というものをこしらえ、心というものをこしらえたんだ。これをもっと真理のうえから言うと、霊魂というひとつの能動的な気体が、肉体という物質的な表現を一方においてつくると同時に、一方において思想や精神生命が、肉体を本位として心理作用を働かせるために、脳髄というものを設備したんだ。
「成功の実現」から

「霊魂」「見えない気体」と同じ意味で使われていることがここでわかりますが、
まぁそういうのは表現のアヤですから、
あまり言葉に惑わされないことが大切と思います。
別の箇所では──
 いかなる時代が来ようとも、この気であるものは、要するにエレクトロンとプロトンだ。エレクトロンとプロトンというものは永久にこの世からなく無くならない。これが人間の正体だ。これを、宗教では「霊魂」と言っている。だから、便宜上、その名前をそのまま自分だと思っていればいい。霊魂という見えざるひとつの気体、これが自分なんだ。「成功の実現」から


いうことですから、
やっぱり「霊魂」っていうのは便宜上の呼び名であるわけですが、
言葉はともかく、
そんなようなものが自分の正体なんですね。
「霊」という文字を見ただけで、
オバケを思い出して拒絶反応が起こる人も多いんじゃないかと思いますが、
そこはちょっとだけ辛抱して、
もうちょいおつきあいいただきたいんですけども、
天風先生のお話の中には「宇宙霊」っていうのが何回も出てきます。
我とは何かを紐解いていく上で、
これはかなり重要なキーワードであることはまちがいないんですけども、
じゃあそれって何なのか?
 この宇宙をつくった造物主を、よろしいか、インドのほうでは宇宙霊という名前で、神なんて言ってません。仏とも言ってません。
   * * *
 インドじゃあ、仏教がうまれたから、さぞ仏教の信者が多かろうと思うけれども、違うんであります。インドでいちばん盛んなのはインド教──ヒンズー教てやつ、それは、いま世界的な哲学になってるヨガ哲学から支店に出されたような分派ですがね、そのほうじゃ宇宙霊といってる。この名前、おもしろいですよ、宇宙霊って名前はね。
 名前がわかったら、その次が大事な問題だ。大事な問題は何だというとね、この宇宙霊、いわゆる普通の人が言う神、仏、我々の言う大自然の造物主というものは、よろしいか、人間の心に従って、きわめて微妙に応酬するものなんであります。
「盛大な人生」から

どうやらヒンズー教の言い方で、
フツウの人がいうところの「神」「仏」と同じことで、
「宇宙をつくった造物主」を指していることがわかります。
そして「霊魂」は、
この「宇宙霊の分派」であって「先天の一気」です。
宇宙そのものが進化向上の意志をもっていて、
生命の誕生はその延長上にあるんです。
まぁ、
あたりまえのことですけど、
だからわれわれ人間(だけじゃなくすべての生物も)は、
宇宙の進化向上のお手伝いをしているという意味で、
一味の助っ人なんです。
神さまってナニ?

ここでついに神さま仏さまが出てきてしまいまして、
出てきたからは、
それって何かっていうことを定義づけないといけません。
 神というものは非科学的な人々が考えてるような、形のあるものでもなきゃ、また人格的なものでもないですね。宇宙のいっさいをつくった不思議な力を形容するために、いわゆる尊敬と驚嘆の念慮から、人間がつくった言葉だもんね。神なり仏なりがあらわれて、俺は神だよ、俺は仏だよと言ったんじゃないんだ。何だかわけがわからないけど、どうも不思議といよりか言葉のないような、この宇宙のあらゆるすべての事物、事象に対して、「ああ、とても我々ではできないわ」という驚嘆と尊敬の念慮から、神、仏と名づけたんだねえ、つまり、詮索していきゃ、宇宙の根本主体なんだ。
 これをもっと純粋科学の立場でいえば、いっさいのエネルギーを生み出す、しかも感覚することのできないもの。それだけにややこしいんですよ。いっさいの、よろしいか、エネルギーを生みだす。何でも、電気の力でも、磁気の力でも、風の力でも、水の力でも、あらゆるすべてのエネルギーを生みだす元なんだ。元なんだけど、感覚することができないもんですから、こういう話を聞いても何だかわけのわからないように感じちまうんだな。
     * * *
 つまり、適切に言うと、断然わからない気体なんです。
「盛大な人生」から

まったく同じことを、
少し言いまわしを変えた説明がありまして、
わたしとしてはこっちのほうがしっくり来ますので、
ほぼ重複しますが引用して紹介します。
 もし神だ仏だということをいいたかったならば、この微粒子という不思議なものをつくった目に見えない力が、神だ仏だといえば間違いないけれども、そうなれば微粒子そのものが、人間の発明した顕微鏡では見ることのできない微少なものなんですから、いわんや、それを創った、まあ仮に神・仏と名付けるものがあるとしたなら、それはもう全然かたちのないものと思わねばなりませんね。一つのエネルギー要素だと思うよりしょうがない。
 その力を人間が尊敬するつもりで形容するとしたら、神といっても仏といっても、ゴッドあるいはアラーといってもよかろう。しかし、ここで考えなくてはならないことは、それの正しい考え方は、仮に神・仏と考えたならば、それと同時に、そのエネルギーを感謝し尊敬することに努めなければいけないのであります。
 宇宙全体を支配している驚くべき力に、ただ感激し、尊敬すればいいのです。
「しるべ」2012年4月号から

なんだかわからないけども、
なんせすごいもんなんだから、
そんなふうにしか名づけられなくてこうなった‥‥と、
いうようなものが神さまです。
サムシング・グレート

名づけたのは日本の村上和雄って人ですけど、
やっぱりそんなようなものですね。
ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」の話を、
まえにしたことがありましたが、
あれに出てくる「自己複製子」「乗り物(ヴィークル/担体)」のたとえが、
「見えない気体」「道具」「入れ物」の話に似ているんです。
ぞくっとするほど、
似ていると感じられてしょうがない。
ひとつの同じ真理を別の着眼であらわしただけだから でしょう。
われわれ、
この自分、この肉体がオギャアと生まれ出てくるまえに、
われわれとなるべく「気」がすでに存在していました。
何もないところから出てきたりしない。
人間以外の生物は、
理性もないし思考力も高くないけれど、
立派に子孫を繁栄させて生き延び続けている。
人間が人間としてこの世に出てくる前に、人間となるべき要素が必ずやあったに違いない「成功の実現」から

われわれの心や体は、
見えない何かによってオートマチックに方向づけられています。
マクロ的にいうと宇宙そのものの意志としか表現のしようがないけれど、
ミクロ的にはひとつひとつのDNAみたいな極小生命に、
進化しよう向上しようという意志が存在します。
生き延びよう、
繁栄しようという性向を持たなかった遺伝子は滅ぶので、
いまここに生きているわれわれの遺伝子は、
進化向上に即応してきた優秀な神の子なんです。
昆虫が明るいところを目指して飛ぶように、
ヒトもまた、
あるひとつの明確な方向へ進むように仕向けられている、
そんな感覚がフーッとわかる気がしませんか。
はじめは観念的なところからなんですが、
真理としてやっぱりそうだと妙に合点がいくようになってくる。
あるものはある

ほんとうの自分は気体です。
しかしこれを、
どうやって証明したらいいのっていうことになると、
やっぱりできないらしい。
「ない」ものを「ある」と証明するのはむずかしいでしょう。
 然らばそも「真我」とは何か?
 静かにそして深く考査を掘り下げて思量して見よう。
 およそ人間の生命の中には、心及び肉体よりも一段超越した、然も厳として存在する実在のものが一つある筈である。
 それがすなわち「真我」なのである。
 そおそもこの実在のものというのは、それがかくの如きものであると、形象やや色彩で示現する事の出来ないものなので、ただ人々のいわゆる信念的自覚念で思量するより以外に知るよしもないというものなのである。
     * * *
 「われ」なるものの本体たる実在のものを、わが意識の中に完全に把握思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地という特別の境地に置かぬ限りは決して発動せしめる事が出来ないものなのである。
中村天風師「研心抄」から

生命の起源もいまだにちゃんとわかってないし、
これから先、
何十年、何百年かかるやら、
そんなもの待ってられないし、
だいいち誰かに対して証明する必要もない。
見るからにカラっぽなんですけど、
でもやっぱりそこにあるんだよという話なんです。
 自分というものの正体は、形ある肉体でもなければ、観念で考えられる心でもなく、ぜんぜん見えない霊魂だと、こう考えるのが一番いい。
 もっとも、それは「考えろ」と無理にはいいませんけれども、「考えなさい、そのほうが得だ」と私は言いたいな。
中村天風師「心に成功の炎を」から

同じことのくりかえしになるんですけども、
言いまわしがちがいますね。
とってもお優しい言葉なんですよ。
あさましいわれわれには、
損得で言われたほうが響きますからね、
得だと言われたらそのとおりやってみようという気になりますもん。
 人間の生命エネルギーの中枢の母がつくる一番大根大本は、科学的に考えてもいけない。哲学的に考えてもいけない。あるものはあるものだから、あるものはあるとして考えられる考え方が一番いいんだ。
     * * *
 「あるものはある」これは、科学でもなければ、哲学でもない。「あるものはある」
 それを理屈なしに考えるのが、考え方としては本当の考え方じゃないか。それを私は、科学的に考えたのでもなければ、哲学的に考えたのでもない。
中村天風師「しるべ」2016年7月号から

いいじゃないですか、
これ、
あるものはある。
わたしは、
いまこうやって50をすぎて、
ITの勉強してパソコンいじってサイト作ってるバカ社長ですけど、
こんなことができるようになるずーっとまえからわたしでしたもん。
じゃあずーっとまえっていつだったかというと、
それはもう、
赤ちゃんのころからわたしでした。
確かに、
ぜんぜん何も覚えてませんけど、
たぶんいまよりずっと可愛かったし、
愛想もよかったと思いますけど、
オッパイ飲んだりハイハイしてたころからわたしでした。
オギャアと生まれるまえはどうかと考えてみると、
産まれて急に別の誰かがわたしと入れ替わったんではありませんから、
やっぱりわたしでした。
>生きるぞ
という
意志をはじめからもって生まれてきたと思います。
ここで文章を考えているわたしはそこにはいませんでしたが、
わたしとなるべく自己の素はありました。
何も覚えてないからわたしじゃないかというとそんなことは決してなく、
それもいまここにいるのと同じわたしです。
じゃあどこがわたしのはじまりか。
それをずーっとたどっていくと、
おとーちゃんの精子とおかーちゃんの卵子が‥‥
っていう話になっていくわけなんですけども、
どこからともなく出てきたんでない以上、
わたしとなるべく「気」がどっかにあったにちがいないと、
それはそうわかります。
わたしという者の命を使って、
この世に出てきたい、
もう一世代、
永く生きのびてやろうという意志があった。
あったから出てこれた。
これはわたしだけの話じゃなく、
そこにいるあなたがあなたなのではなく、
いまあなたが纏っている肉体や心を持つまえから、
どっかからはじまってあなたになったものがある。
そのころの自分は、
自分で自分とわからなかったからといって、
それは自分ではありませんと言いますか?
それを「魂」と呼ぼうがなんと呼ぼうが、
あったもんはあった。
イワシの頭も信心からといいますが、
理屈じゃないとなるとこれは信心です。
ここでそう無邪気に信じられる人とそうでない人の生き方が、
あなたは右にわたしは左にアンルイス
と、
分かれることになるかもしれませんけども、
どうせ生きていくならお得なほうを選んだほうがいいじゃないですか。
意志の出どころ

心を積極的にするというところまでは、
まあ誰でもわかるし、
日々の生活の中で実践もできるでしょう。
ポジティブだとかネガティブだとかいう心の姿勢は、
子どもでも知ってます。
絶対積極だニュートラルだっていうのも、
ちょっとむずかしいけどわかります。
それでじゅうぶんじゃないのっていうのもわかった。
じゅうぶん長い道のりですから、
めでたく心が積極化された日には、
ゴールに到達できたような錯覚を起こすんです。
しかしここからです。
ほんとうの自分とは何か、
真我とは何かということが自覚されていないと、
心がウロチョロしたときにこれを監督してくれるものがありません。
理性には心を統御する力はないからです。
もし心が自分なのだとしたら、
心の乱れはイコール自分の乱れ。
これでは自分を安定させる手立てがありません。
そこで、
霊魂のもっている固有性能である意志を渙発しないとね
ってことになるわけなんです。
 それが段々わかってくるようになるんですよ。自分の命のほんとうの主催権をもっているのは肉体じゃなかった。心でもなかった。見えない気体が自分の命の主催権をもってるということがわかる。この気体を日本語では霊魂といってます。英語では、スピリットといいます。これがほんとうにフウゥとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然と心のなかにこの気持ちがはっきり自分でキャッチすることができるようになります。
     * * *
 実際これは、考えてくれなければいけないことなんですよ。生命は、命を生かしてる根本要素である霊魂が主催権をもっているんだ。
 この真理をあなた方が悟れれば、悟ると同時にそれは確固たる信念になります。
「成功の実現」から

頭で理解しただけでは意味がないとはいえ、
ここではせめて頭の中で理解してみましょう。
心も肉体も自分ではないということをです。
ほんとうの自分にとって、
心は生きるための道具であって、
そもそも別々のもの。
だから心は、
外から眺めることができる。
心が痛いというのは、
自分が痛いというのではない。
事実において人生苦というものの九割九分は、よろしいか、入念に分析してみると、心を己の生命の生きるための道具として使わないで、反対にそれに使われているがためであるんですよ。生命に対する支配権を心が持つものと誤解しているからなんだ。「真人生の創造」から

 だから、もしも考えられたら、そういう考え方にしてごらん、今日から。肉体は我が命の生きるための道具と。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなってんじゃない、と。自分の命を入れる入れ物に故障ができたんだけど、この故障は、ありがたいかな、自然に心がそれから離れさえすれば治るようにできてるんだってことを、ありがたく感謝しなきゃだめだぜ。これだよ、一番肝心なことは。
 着物が破れたら、人間はそのほころびを繕わなきゃならない。屋根が漏りゃ、屋根屋を呼んできて、そこをふさがなきゃならない。
 ところが、人間のほうは、ありがたいかな、自分が何にもしなくても、そこから心が離れさえすりゃいいんだよ。なぜというと、離れると消極的な観念がなくなっちまうだろ。消極的観念がなくなると、肉体のもってる自然作用がその場所をもとの健全な状態にするために働きだすようにできてんだよ。これを普通の人は気がつかねえんだ。昔からいってるじゃねえか。病は忘れることによって治る。
「心に成功の炎を」から

現象の背後に実在あり

もっとも肝心かなめなところは、
肉体や心をそれが自分だと思って混ぜこぜにしないように、
できるかぎり客観視することです。
いま、
自分が自分だと思っているほんとうじゃないほうの自分を、
そこから離れて客観視する。
ちょっと離れた位置、
ちがった角度から、
心を客観的に観ることができて、
あたかもかたちあるモノのように取り扱うことができて、
どんな事象からでも心を外すことができたらいい。
辛い出来事があって心が凹んだときや、
理不尽な仕打ちで心がへこたれそうなときほど、
これを訓練するには向いています。
現象の背後に必ず実在がある
──この言葉、
そういうときにしょっちゅう思い出すといいですよ。
怒りや恐れ、
悲しみというような消極的なものが心に発生したときは、
逆にチャンスですから、
すかさずこの言葉を思い出すようにするんです。
実在という言葉、
哲学用語っぽくてほんとうにわかりにくいです。
なんにもないように見えるところにあるものの話なので、
めんどくさくなってくるかもしれませんけど、
ここが踏んばりどころです。
 目に見える現象の世界は、目に見えない一つの大きなエネルギーがこれをつくったんだと。そのエネルギー、それが実在だ。
     * * *
 この気というものはなんの気であろうと不滅不朽、なくならないもの。つまり哲学的に言えば、絶対に完全なもの。
 そこでだ、この絶対に完全な霊魂という気はどんな場合にも不完全なものや不完全のことを感じるはずないんですから。だから、今自分の心の中に感じてる、思っている消極的な気持ちは、これは本当の自分が考えてるんじゃないと、こういうふうに否定しちまえばいいんだよ。
* * *
 どこまでも人間のこの生命の背後には純一無雑な、一切のものを完全に造り上げようとする宇宙霊、いわゆるブリルという実在があるんだという真理を考えると、そう考えただけで、その考え方を間違いなく続けていけば、たとえ一時的に心の中に闇をつくる消極的な気持ちがふーっと出ても、ちょうど時間の短い停電と同様、たちまち光の輝く積極的な思考がそれに代わる。輝き出すと言おうか、そうなるようにできてる。
「真人生の創造」から

いやなこと、
つらい、寂しい、悲しい‥‥
そういうのは、
ほんとうの自分が感じてるんじゃなくて、
自分が使ってる道具に発生してるだけだ
と、
こんなふうな思い方を信念にしてしまえという話なんです。
ムチャですか?
わたしもそれはずいぶんムチャなことを言われるなと、
はじめは思いました。
だからほったらかしにしてたんですけど、
別に、
それでも何も困らない10年があっというまにすぎました。
くりかえしになりますが、
60点、70点の人生でいいならそれでいいと思うんです。
自分の理想みたいなもんがあったとして、
それに対して80点でいいならいい。
合格点でしょう?
いいじゃないですか。
しかし仮に90点だったとしてもですよ、
あと10点はできてないし、
だったらそのぶんが苦しいわけじゃないですか。
脅かされてビビる、腹が立っていらつく、
そんな情けない状態を、
いつまでもずるずる引きずることにウンザリで、
ずっと「磨きたての真珠を薄絹に包んだような気持ち」でいたいなら、
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないんだっていう信念ができてないといけません。
怒らず 恐れず 悲しまず
正直 親切 愉快に

この三忽三行が、
80点でいいならいいですよ。
でもね、
もっとクリアに、
完全に穏やかに磨きをかけていこうとすると、
もう一歩、
深いところに踏みこむ必要を感じるわけです。
だからわたしは
本気で生きることにします
泰然自若、
安心立命の境地とはどんなんですか。
霊性生活ってどんなんですか。
クンバハカやって安定打坐やってても、
単にそれだけではじゅうぶんではないですね。
人間として生まれてきた使命

もっともっと意義の尊い、進化向上という宇宙本来の目的を助成するために、この世に男であり女であり生まれてきたんだ、お互いにね。贅沢しに来たんでもなきゃ、うまいもの食いに来たんでもなきゃ、名を売るために来たんでもなきゃ、金儲けしに来たんだもなく、いわんやまして病み患いをするために来たんでもなけりゃ、心配や煩悶をするために来たんじゃねえじゃねえか。
 進化(Evolution)と向上(Elevation)という尊いことを実行するために、男も女も万物の霊長として犬や猫に優った働きを体にも心にも与えられて出てきたんだ。
「真人生の創造」から

人間は、
宇宙本来の目的である進化向上を助成するのが使命だ
と、
まぁこんなふうに教えられても、
はじめはなんのこっちゃわかりませんでしたけど。
わからなかったというより興味がありませんでした。
だいたいが、
日本の政治さえどっち向いて進んでいこうとしてるのか、
ろくにわかってないのに、
宇宙と自分のあいだにたいした関係性があるとも思えないし、
「使命」というような重たそうな響きのあるものは好きじゃなかったし‥‥。
それがなんと!
こんな言葉の意味が、
スッと腹に落ちるようになります。
お金を儲けて名前を売って、
おいしいもの食べて贅沢してっていうのが目的じゃありません。
そういう欲望はすべてあったにしても、
目的とか使命とかとはぜんぜんちがうで!
っていうのはハッキリ確実なんです。
宇宙は進化向上したがっている。
その欲望や力の弱い者はすでに滅んで残っていないから、
いま生きのびている者はすべてこれからも子孫繁栄したがる。
そんな「気」の流れに乗ってわたしやあなたが生まれてきた。
というより、
生物みんなが創造された。
遺伝子みんながそっち向いてる。
だからそれに順応して、
それを助成して生きていくのがほんとうだ。
さからったってムダや。
宇宙ぜんぶを敵にまわすようなもんなんやから、
しんどいのはあたりまえ。
それなら自分もやっぱり、
この宇宙の進化向上の一助になるように、
汗水たらして努力して働いて喜んでいただきましょう。
 「空」とは、無ということではない。「無」は、何もない=Nothingである。
 「空」とは、何もないのではなく、厳密にいえば、「空」とは意識感覚の線上に現出しない「有」なのである。
 いずれにしても、こうした永久不滅の絶対的の実在物である「空」なるものから、一切の万物万象が作為されているのであるが、ここで特に深甚なる注意を厳かに促さねばならぬことがある。
 それは、そもそも何であるかというに、かくのごとき尊厳な事実と過程によって作為された万物万象のすべては、いずれも一切独自的に存在するものは一つとしてなく、厳密に相互に協調して、その存在を確保しあっているという、犯すべからざる現実があるということである。
 わかりやすくいえば、もちつもたれつ、互いに助け合って調和を図りながら存在しているということなのである。
 そして、この調和が完全である間は、その物象の存在は安定しているのである。
 それから、もう一つ忘れてならないことは、その調和が、何かの原因で破れると、それをそのままにしておかないという無限の親切さが、この「空」なるものによって常住行われるという事柄である。
「叡智のひびき」から


▼スポンサーリンク▼