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ほんとうの自分とは

わたしは別に、
我とは何ぞや?
ってことを、
詳しく知りたかったわけではありません。
どっちでもいいって話で済ませられるもんなら、
知らないままでやりすごしたいです。
いかにもめんどくさいし、
むずかしそうで。
ただ、
自分の味わう「苦」というものを、
なしにしたかったんですね、
わたしは。
「したかった」と過去形でいうよりも、
なしにしたい
と、
いいなおしましょうか。
自分の心が、
振りまわされたり引きずられたりチクチク刺されたり、
そういうのをなしにしたい。
ぜいたくかもしれませんけど、
ゼロ

したい。
自分の心に一切の苦しみを味わわせたくない。
たっぷり楽しみを味わわせてやりたい気持ちもありますけども、
それより先に、
苦しみをゼロにしたいほうが強い。
その方法を突きつめていくと、
この、
ほんとうの自分って何なんだろう?
っていうところが、
どうしても避けて通れないってことがわかってきたんです。
知らなくても困らないが知らないではおられない

あなただってそうですよ。
ほんとうの自分というものの正体がわかっていて、
もしいまのあなたがほんとうにほんとうのあなただとしたら、
あなたは「苦」というものから完全に離れていられるはずです。
そうじゃないとしたら、
つまり、
まだまだ人生に「苦」というものが残っているとしたら、
あなたは
ほんとうのあなたではないあなたをあなただと思い違いしてる人です。
さぁ‥‥
ややこしくてめんどくさいですよ、
きょうの話は。
おまけに、
とかとか、
とかとか、あるいはとか、
そういう宗教チックな用語が何回も出てきますので、
論理的でないというか、
非科学的で根拠に乏しい印象を受けられるかもわかりません。
ま、
このサイトに何回か来られた方は、
わたしが理屈っぽくて素直じゃないことはすでにおわかりと思います。
かっこよくいえば論理的思考の持ち主なわけですが、
なんせ理屈が通らないことは受けつけないタイプです。
しかし今回ばかりは、
理屈が通るのを待っていては時間切れになりそうで、
もう観念的に飲みこんでしまいました。
心の混乱を、感情のブレを、
徹底的にクリアにしたい人にとっては、
科学よりも哲学よりも、
無条件に大切なことがありますね。
ほんとうの自分とは何かなんて、
どっちでもいい人にとってはほんとうにどっちでもいい話。
知らなくても困りません。
けれど、
怒ったり恐れたり悲しんだり、
降りかかる事象に心が振りまわされたり引きずられたりしてしまう、
そんなわずらわしさをゼロにすることと、
ほんとうの自分って何なんだというのが関わっているとしたらどうでしょう?
肉体の痛みさえも、
消せる手段があると聞いたら、
わたしそれはどうしても知っておきたかったんです。
いままで知っていた方法は、
ストレスに対処する方法にしてもなんにしても、
心をポジティブに強くするとか、
心が受けたダメージをやわらげるとかリカバーするとか、
心を関わらせず平静を保つとか、
どこまでも心、心、心で、心が本位。
心がしんどいんですから、
心から考えて心を手当するのは同然です。
ところがこんどのこれは、
そもそも心は自分ではないと切り離し、
自分の本体は絶対の存在ではじめからなんともない、
何も触れさせもしないというようなことですから、
苦しいとか苦しくないとかいう土台の位相がまるでちがいます。
あとで述べますが、
訓練の方法はわかっていますから、
あとはやりつづけるだけです。
ほんとうの自分とは

理屈はわりと早く「わかる」んですが、
こればっかりはわかってもしょうがない。
ただ「それである感じ」

どっぷりとくるまれないとしょうがない。
「それ」とは、
こちら側の自分から見たほんとうの自分らしきもの
です。
>ほんとうの自分とは○○○なんですよ
と、
だれかに教わっただけでは、
そのときだけパッと頭が晴れた気持ちになれても、
それだけじゃどうしようもない。
わかって出会えて、
連絡が取れて行き来ができてつながって、
ひとつになることができて、
それ自体で「ある」ことができる。
自分が「それ」なんですから、
「それ」「ある」のがもともとあたりまえで、
こっちの自分から見てあっちにいることがおかしい。
あっちに行ってみたら、
なるほどこっちはほんとうの自分ではないなと、
わかる感じ。
こっちからあっちに転移が起こる‥‥
みたいな。
けれど、
ほんとうの自分というわりには、
あっちには何もありません。
「空」があるだけで何もない。
何もないのと「空」があるというのはちがうんですけど、
この感じを、
もし仮にわたしが完ぺきに知っていたとしても、
それをあなたに伝えることは至難でしょうに、
ましてやかじりかけの断片情報。
かなりおかしな伝え方になるでしょうね。
おかしいと思ったら、
このへんでもう読むのをやめといてくださいね。
クンバハカを先に

「成功の実現」に次のような一節があります。
 そこで、やむにやまれず、変則的に心身統一法の会得と、その会得に関連する理解を与えることを最初にして、それから「我とは何ぞや」という重大な問題の決定を行っているわけなんです。
 けど、どこまでいっても、これは変則的なんです。厳格にいえば、「我とは何ぞや」がほんとうにわかってからでないと、人間の生命にからまる幽玄微妙の消息というものは、聞かされてもハハァーンと、ある程度まではわかった気分になりますが、ほんとうの自覚にはいたらない。わかった、というだけではいけないのであります。
中村天風師「成功の実現」から

──ここ、
なるほどなぁ
と、
100回くらいうなずいてしまうとこなんですが。
「成功の実現」はかれこれ13年も前に読んで、
まさに2つめの命をもらえたと思っているくらいですから、
それはもう熟読も精読も、
一言半句を諳誦するくらいの勢いで舐めまわすように読みましたが、
この変則的な順序の意図がわかってきたのはようやく最近のことなんです。
さすが天風先生がすべてお見通しのとおり、
やはり「我とは何ぞや」の理解はあとまわしになりました。
知らなくても、
生きていくのに何の不自由もないからです。
ほんとうの自分とかウソの自分とか、
どこからどこまでがほんとうで、
いつからいつまでがウソで、
じゃあいまここにいる自分はほんとうかウソか?
──とか、
むずかしかったしややこしかったので、
あとまわし。
とにかくもうひとりの自分が別にいるのだな‥‥
くらいがわかれば、
あとはそれよりも先に、
目の前にある現実生活のごちゃごちゃを解決することが優先ですから、
てっとり早くその方法を、
つまり、
観念要素の更改だ、積極精神の養成だ、神経反射の調節だ、
を、
先に習得して楽になりたいということになったわけです。
それだけで、
もうじゅうぶんでした。
人生のステージを、
2段も3段も一足飛びに上げられるんですから、
もうじゅうぶん。
所得が2倍、3倍に増えると生活パターンが一変してしまうのと同じことで、
心がもうすっかり入れ替わると、
何がどうなってもだいじょうぶな身分になってしまったかのような錯覚に陥ります。
夢はかなっているし、病気は治っているし、
所得は増えているし、
家族みんなしあわせでまわりの人間関係も良好。
他人がどう思おうが、
どこにも何もケチのつけようがない。
まったく、
ぬるま湯ほど恐ろしい楽園はないのです。
>もうええわ。
>だいたいわかったし、
>このへんでじゅうぶんやわ。
>またそのときがきたら続きをやったらええわ。

と、
これも先生が予言されているとおり、
あまりにも価値高いものを、
カンタンに教わりすぎたたために、
油断というものがはからずも発生してしまい、
「特殊の心的修練」の継続がおろそかになってしまうんですね。
だから、
まだクンバハカも何かようわからんわって方は、
ここでまわれ右されたほうがいいのかな

思います。
状況がややこしくて心がしんどくなりそうなとき、
わたしの場合ですと、
かなり大切な原則を応用して措置しますので、
9割方はこれで乗り切れてしまいます。
毎日が不平不満だらけな人生を送っているという方でも、
この原則を知っているだけで、
心の粗大ゴミはおろかチリ、ホコリにいたるまで、
とりあえず内面をピッカピカに磨くことはできるでしょう。
しばらくするとリバウンドが来るんですけど、
それも平気で何回も乗り越えられます。
先にそういうプロセスを踏まれたほうがよろしいです。
何も問題なし
のようで、
ほんとうは問題あり。
そんな壁に突きあたってから、
もう1回ここに来られたらよろしいのではないかと。
ほんとうの自分の正体

結論はハッキリしてます。
心でも肉体でもない、
自分のほんとうの正体は目に見えない気体です。
少しずつ言いまわしが変わったり、
前後の脈絡もちがって聞こえることがありますけど、
真実はひとつ。
理屈っぽいわたしは、
聞いてる側の理解を促すために先生が「便宜上」お使いになったやさしい語彙と、
ほんとうに意図しておっしゃられた真理を、
混同しないようにがんばって整理するように努めましたが。
 人間は心も体も生きるための道具。いちばん尊いのは霊魂というひとつの気体。これがあなた方の正体なの。
   * * *
 もともと体が気をしょって出てきたんじゃなく、気が生きるために体というものをこしらえ、心というものをこしらえたんだ。これをもっと真理のうえから言うと、霊魂というひとつの能動的な気体が、肉体という物質的な表現を一方においてつくると同時に、一方において思想や精神生命が、肉体を本位として心理作用を働かせるために、脳髄というものを設備したんだ。
「成功の実現」から

「霊魂」「見えない気体」と同じ意味で使われていることがここでわかりますが、
まぁそういうのは表現のアヤですから、
あまり言葉に惑わされないことが大切と思います。
別の箇所では──
 いかなる時代が来ようとも、この気であるものは、要するにエレクトロンとプロトンだ。エレクトロンとプロトンというものは永久にこの世からなく無くならない。これが人間の正体だ。これを、宗教では「霊魂」と言っている。だから、便宜上、その名前をそのまま自分だと思っていればいい。霊魂という見えざるひとつの気体、これが自分なんだ。「成功の実現」から


いうことですから、
やっぱり「霊魂」っていうのは便宜上の呼び名であるわけですが、
言葉はともかく、
そんなようなものが自分の正体なんですね。
「霊」という文字を見ただけで、
オバケを思い出して拒絶反応が起こる人も多いんじゃないかと思いますが、
そこはちょっとだけ辛抱して、
もうちょいおつきあいいただきたいんですけども、
天風先生のお話の中には「宇宙霊」っていうのが何回も出てきます。
我とは何かを紐解いていく上で、
これはかなり重要なキーワードであることはまちがいないんですけども、
じゃあそれって何なのか?
 この宇宙をつくった造物主を、よろしいか、インドのほうでは宇宙霊という名前で、神なんて言ってません。仏とも言ってません。
   * * *
 インドじゃあ、仏教がうまれたから、さぞ仏教の信者が多かろうと思うけれども、違うんであります。インドでいちばん盛んなのはインド教──ヒンズー教てやつ、それは、いま世界的な哲学になってるヨガ哲学から支店に出されたような分派ですがね、そのほうじゃ宇宙霊といってる。この名前、おもしろいですよ、宇宙霊って名前はね。
 名前がわかったら、その次が大事な問題だ。大事な問題は何だというとね、この宇宙霊、いわゆる普通の人が言う神、仏、我々の言う大自然の造物主というものは、よろしいか、人間の心に従って、きわめて微妙に応酬するものなんであります。
「盛大な人生」から

どうやらヒンズー教の言い方で、
フツウの人がいうところの「神」「仏」と同じことで、
「宇宙をつくった造物主」を指していることがわかります。
そして「霊魂」は、
この「宇宙霊の分派」であって「先天の一気」です。
宇宙そのものが進化向上の意志をもっていて、
生命の誕生はその延長上にあるんです。
まぁ、
あたりまえのことですけど、
だからわれわれ人間(だけじゃなくすべての生物も)は、
宇宙の進化向上のお手伝いをしているという意味で、
一味の助っ人なんです。
神さまってナニ?

ここでついに神さま仏さまが出てきてしまいまして、
出てきたからは、
それって何かっていうことを定義づけないといけません。
 神というものは非科学的な人々が考えてるような、形のあるものでもなきゃ、また人格的なものでもないですね。宇宙のいっさいをつくった不思議な力を形容するために、いわゆる尊敬と驚嘆の念慮から、人間がつくった言葉だもんね。神なり仏なりがあらわれて、俺は神だよ、俺は仏だよと言ったんじゃないんだ。何だかわけがわからないけど、どうも不思議といよりか言葉のないような、この宇宙のあらゆるすべての事物、事象に対して、「ああ、とても我々ではできないわ」という驚嘆と尊敬の念慮から、神、仏と名づけたんだねえ、つまり、詮索していきゃ、宇宙の根本主体なんだ。
 これをもっと純粋科学の立場でいえば、いっさいのエネルギーを生み出す、しかも感覚することのできないもの。それだけにややこしいんですよ。いっさいの、よろしいか、エネルギーを生みだす。何でも、電気の力でも、磁気の力でも、風の力でも、水の力でも、あらゆるすべてのエネルギーを生みだす元なんだ。元なんだけど、感覚することができないもんですから、こういう話を聞いても何だかわけのわからないように感じちまうんだな。
     * * *
 つまり、適切に言うと、断然わからない気体なんです。
「盛大な人生」から

まったく同じことを、
少し言いまわしを変えた説明がありまして、
わたしとしてはこっちのほうがしっくり来ますので、
ほぼ重複しますが引用して紹介します。
 もし神だ仏だということをいいたかったならば、この微粒子という不思議なものをつくった目に見えない力が、神だ仏だといえば間違いないけれども、そうなれば微粒子そのものが、人間の発明した顕微鏡では見ることのできない微少なものなんですから、いわんや、それを創った、まあ仮に神・仏と名付けるものがあるとしたなら、それはもう全然かたちのないものと思わねばなりませんね。一つのエネルギー要素だと思うよりしょうがない。
 その力を人間が尊敬するつもりで形容するとしたら、神といっても仏といっても、ゴッドあるいはアラーといってもよかろう。しかし、ここで考えなくてはならないことは、それの正しい考え方は、仮に神・仏と考えたならば、それと同時に、そのエネルギーを感謝し尊敬することに努めなければいけないのであります。
 宇宙全体を支配している驚くべき力に、ただ感激し、尊敬すればいいのです。
「しるべ」2012年4月号から

なんだかわからないけども、
なんせすごいもんなんだから、
そんなふうにしか名づけられなくてこうなった‥‥と、
いうようなものが神さまです。
サムシング・グレート

名づけたのは日本の村上和雄って人ですけど、
やっぱりそんなようなものですね。
ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」の話を、
まえにしたことがありましたが、
あれに出てくる「自己複製子」「乗り物(ヴィークル/担体)」のたとえが、
「見えない気体」「道具」「入れ物」の話に似ているんです。
ぞくっとするほど、
似ていると感じられてしょうがない。
ひとつの同じ真理を別の着眼であらわしただけだから でしょう。
われわれ、
この自分、この肉体がオギャアと生まれ出てくるまえに、
われわれとなるべく「気」がすでに存在していました。
何もないところから出てきたりしない。
人間以外の生物は、
理性もないし思考力も高くないけれど、
立派に子孫を繁栄させて生き延び続けている。
人間が人間としてこの世に出てくる前に、人間となるべき要素が必ずやあったに違いない「成功の実現」から

われわれの心や体は、
見えない何かによってオートマチックに方向づけられています。
マクロ的にいうと宇宙そのものの意志としか表現のしようがないけれど、
ミクロ的にはひとつひとつのDNAみたいな極小生命に、
進化しよう向上しようという意志が存在します。
生き延びよう、
繁栄しようという性向を持たなかった遺伝子は滅ぶので、
いまここに生きているわれわれの遺伝子は、
進化向上に即応してきた優秀な神の子なんです。
昆虫が明るいところを目指して飛ぶように、
ヒトもまた、
あるひとつの明確な方向へ進むように仕向けられている、
そんな感覚がフーッとわかる気がしませんか。
はじめは観念的なところからなんですが、
真理としてやっぱりそうだと妙に合点がいくようになってくる。
あるものはある

ほんとうの自分は気体です。
しかしこれを、
どうやって証明したらいいのっていうことになると、
やっぱりできないらしい。
「ない」ものを「ある」と証明するのはむずかしいでしょう。
 然らばそも「真我」とは何か?
 静かにそして深く考査を掘り下げて思量して見よう。
 およそ人間の生命の中には、心及び肉体よりも一段超越した、然も厳として存在する実在のものが一つある筈である。
 それがすなわち「真我」なのである。
 そおそもこの実在のものというのは、それがかくの如きものであると、形象やや色彩で示現する事の出来ないものなので、ただ人々のいわゆる信念的自覚念で思量するより以外に知るよしもないというものなのである。
     * * *
 「われ」なるものの本体たる実在のものを、わが意識の中に完全に把握思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地という特別の境地に置かぬ限りは決して発動せしめる事が出来ないものなのである。
中村天風師「研心抄」から

生命の起源もいまだにちゃんとわかってないし、
これから先、
何十年、何百年かかるやら、
そんなもの待ってられないし、
だいいち誰かに対して証明する必要もない。
見るからにカラっぽなんですけど、
でもやっぱりそこにあるんだよという話なんです。
 自分というものの正体は、形ある肉体でもなければ、観念で考えられる心でもなく、ぜんぜん見えない霊魂だと、こう考えるのが一番いい。
 もっとも、それは「考えろ」と無理にはいいませんけれども、「考えなさい、そのほうが得だ」と私は言いたいな。
中村天風師「心に成功の炎を」から

同じことのくりかえしになるんですけども、
言いまわしがちがいますね。
とってもお優しい言葉なんですよ。
あさましいわれわれには、
損得で言われたほうが響きますからね、
得だと言われたらそのとおりやってみようという気になりますもん。
 人間の生命エネルギーの中枢の母がつくる一番大根大本は、科学的に考えてもいけない。哲学的に考えてもいけない。あるものはあるものだから、あるものはあるとして考えられる考え方が一番いいんだ。
     * * *
 「あるものはある」これは、科学でもなければ、哲学でもない。「あるものはある」
 それを理屈なしに考えるのが、考え方としては本当の考え方じゃないか。それを私は、科学的に考えたのでもなければ、哲学的に考えたのでもない。
中村天風師「しるべ」2016年7月号から

いいじゃないですか、
これ、
あるものはある。
わたしは、
いまこうやって50をすぎて、
ITの勉強してパソコンいじってサイト作ってるバカ社長ですけど、
こんなことができるようになるずーっとまえからわたしでしたもん。
じゃあずーっとまえっていつだったかというと、
それはもう、
赤ちゃんのころからわたしでした。
確かに、
ぜんぜん何も覚えてませんけど、
たぶんいまよりずっと可愛かったし、
愛想もよかったと思いますけど、
オッパイ飲んだりハイハイしてたころからわたしでした。
オギャアと生まれるまえはどうかと考えてみると、
産まれて急に別の誰かがわたしと入れ替わったんではありませんから、
やっぱりわたしでした。
>生きるぞ
という
意志をはじめからもって生まれてきたと思います。
ここで文章を考えているわたしはそこにはいませんでしたが、
わたしとなるべく自己の素はありました。
何も覚えてないからわたしじゃないかというとそんなことは決してなく、
それもいまここにいるのと同じわたしです。
じゃあどこがわたしのはじまりか。
それをずーっとたどっていくと、
おとーちゃんの精子とおかーちゃんの卵子が‥‥
っていう話になっていくわけなんですけども、
どこからともなく出てきたんでない以上、
わたしとなるべく「気」がどっかにあったにちがいないと、
それはそうわかります。
わたしという者の命を使って、
この世に出てきたい、
もう一世代、
永く生きのびてやろうという意志があった。
あったから出てこれた。
これはわたしだけの話じゃなく、
そこにいるあなたがあなたなのではなく、
いまあなたが纏っている肉体や心を持つまえから、
どっかからはじまってあなたになったものがある。
そのころの自分は、
自分で自分とわからなかったからといって、
それは自分ではありませんと言いますか?
それを「魂」と呼ぼうがなんと呼ぼうが、
あったもんはあった。
イワシの頭も信心からといいますが、
理屈じゃないとなるとこれは信心です。
ここでそう無邪気に信じられる人とそうでない人の生き方が、
あなたは右にわたしは左にアンルイス
と、
分かれることになるかもしれませんけども、
どうせ生きていくならお得なほうを選んだほうがいいじゃないですか。
意志の出どころ

心を積極的にするというところまでは、
まあ誰でもわかるし、
日々の生活の中で実践もできるでしょう。
ポジティブだとかネガティブだとかいう心の姿勢は、
子どもでも知ってます。
絶対積極だニュートラルだっていうのも、
ちょっとむずかしいけどわかります。
それでじゅうぶんじゃないのっていうのもわかった。
じゅうぶん長い道のりですから、
めでたく心が積極化された日には、
ゴールに到達できたような錯覚を起こすんです。
しかしここからです。
ほんとうの自分とは何か、
真我とは何かということが自覚されていないと、
心がウロチョロしたときにこれを監督してくれるものがありません。
理性には心を統御する力はないからです。
もし心が自分なのだとしたら、
心の乱れはイコール自分の乱れ。
これでは自分を安定させる手立てがありません。
そこで、
霊魂のもっている固有性能である意志を渙発しないとね
ってことになるわけなんです。
 それが段々わかってくるようになるんですよ。自分の命のほんとうの主催権をもっているのは肉体じゃなかった。心でもなかった。見えない気体が自分の命の主催権をもってるということがわかる。この気体を日本語では霊魂といってます。英語では、スピリットといいます。これがほんとうにフウゥとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然と心のなかにこの気持ちがはっきり自分でキャッチすることができるようになります。
     * * *
 実際これは、考えてくれなければいけないことなんですよ。生命は、命を生かしてる根本要素である霊魂が主催権をもっているんだ。
 この真理をあなた方が悟れれば、悟ると同時にそれは確固たる信念になります。
「成功の実現」から

頭で理解しただけでは意味がないとはいえ、
ここではせめて頭の中で理解してみましょう。
心も肉体も自分ではないということをです。
ほんとうの自分にとって、
心は生きるための道具であって、
そもそも別々のもの。
だから心は、
外から眺めることができる。
心が痛いというのは、
自分が痛いというのではない。
事実において人生苦というものの九割九分は、よろしいか、入念に分析してみると、心を己の生命の生きるための道具として使わないで、反対にそれに使われているがためであるんですよ。生命に対する支配権を心が持つものと誤解しているからなんだ。「真人生の創造」から

 だから、もしも考えられたら、そういう考え方にしてごらん、今日から。肉体は我が命の生きるための道具と。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなってんじゃない、と。自分の命を入れる入れ物に故障ができたんだけど、この故障は、ありがたいかな、自然に心がそれから離れさえすれば治るようにできてるんだってことを、ありがたく感謝しなきゃだめだぜ。これだよ、一番肝心なことは。
 着物が破れたら、人間はそのほころびを繕わなきゃならない。屋根が漏りゃ、屋根屋を呼んできて、そこをふさがなきゃならない。
 ところが、人間のほうは、ありがたいかな、自分が何にもしなくても、そこから心が離れさえすりゃいいんだよ。なぜというと、離れると消極的な観念がなくなっちまうだろ。消極的観念がなくなると、肉体のもってる自然作用がその場所をもとの健全な状態にするために働きだすようにできてんだよ。これを普通の人は気がつかねえんだ。昔からいってるじゃねえか。病は忘れることによって治る。
「心に成功の炎を」から

現象の背後に実在あり

もっとも肝心かなめなところは、
肉体や心をそれが自分だと思って混ぜこぜにしないように、
できるかぎり客観視することです。
いま、
自分が自分だと思っているほんとうじゃないほうの自分を、
そこから離れて客観視する。
ちょっと離れた位置、
ちがった角度から、
心を客観的に観ることができて、
あたかもかたちあるモノのように取り扱うことができて、
どんな事象からでも心を外すことができたらいい。
辛い出来事があって心が凹んだときや、
理不尽な仕打ちで心がへこたれそうなときほど、
これを訓練するには向いています。
現象の背後に必ず実在がある
──この言葉、
そういうときにしょっちゅう思い出すといいですよ。
怒りや恐れ、
悲しみというような消極的なものが心に発生したときは、
逆にチャンスですから、
すかさずこの言葉を思い出すようにするんです。
実在という言葉、
哲学用語っぽくてほんとうにわかりにくいです。
なんにもないように見えるところにあるものの話なので、
めんどくさくなってくるかもしれませんけど、
ここが踏んばりどころです。
 目に見える現象の世界は、目に見えない一つの大きなエネルギーがこれをつくったんだと。そのエネルギー、それが実在だ。
     * * *
 この気というものはなんの気であろうと不滅不朽、なくならないもの。つまり哲学的に言えば、絶対に完全なもの。
 そこでだ、この絶対に完全な霊魂という気はどんな場合にも不完全なものや不完全のことを感じるはずないんですから。だから、今自分の心の中に感じてる、思っている消極的な気持ちは、これは本当の自分が考えてるんじゃないと、こういうふうに否定しちまえばいいんだよ。
* * *
 どこまでも人間のこの生命の背後には純一無雑な、一切のものを完全に造り上げようとする宇宙霊、いわゆるブリルという実在があるんだという真理を考えると、そう考えただけで、その考え方を間違いなく続けていけば、たとえ一時的に心の中に闇をつくる消極的な気持ちがふーっと出ても、ちょうど時間の短い停電と同様、たちまち光の輝く積極的な思考がそれに代わる。輝き出すと言おうか、そうなるようにできてる。
「真人生の創造」から

いやなこと、
つらい、寂しい、悲しい‥‥
そういうのは、
ほんとうの自分が感じてるんじゃなくて、
自分が使ってる道具に発生してるだけだ
と、
こんなふうな思い方を信念にしてしまえという話なんです。
ムチャですか?
わたしもそれはずいぶんムチャなことを言われるなと、
はじめは思いました。
だからほったらかしにしてたんですけど、
別に、
それでも何も困らない10年があっというまにすぎました。
くりかえしになりますが、
60点、70点の人生でいいならそれでいいと思うんです。
自分の理想みたいなもんがあったとして、
それに対して80点でいいならいい。
合格点でしょう?
いいじゃないですか。
しかし仮に90点だったとしてもですよ、
あと10点はできてないし、
だったらそのぶんが苦しいわけじゃないですか。
脅かされてビビる、腹が立っていらつく、
そんな情けない状態を、
いつまでもずるずる引きずることにウンザリで、
ずっと「磨きたての真珠を薄絹に包んだような気持ち」でいたいなら、
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないんだっていう信念ができてないといけません。
怒らず 恐れず 悲しまず
正直 親切 愉快に

この三忽三行が、
80点でいいならいいですよ。
でもね、
もっとクリアに、
完全に穏やかに磨きをかけていこうとすると、
もう一歩、
深いところに踏みこむ必要を感じるわけです。
だからわたしは
本気で生きることにします
泰然自若、
安心立命の境地とはどんなんですか。
霊性生活ってどんなんですか。
クンバハカやって安定打坐やってても、
単にそれだけではじゅうぶんではないですね。
人間として生まれてきた使命

もっともっと意義の尊い、進化向上という宇宙本来の目的を助成するために、この世に男であり女であり生まれてきたんだ、お互いにね。贅沢しに来たんでもなきゃ、うまいもの食いに来たんでもなきゃ、名を売るために来たんでもなきゃ、金儲けしに来たんだもなく、いわんやまして病み患いをするために来たんでもなけりゃ、心配や煩悶をするために来たんじゃねえじゃねえか。
 進化(Evolution)と向上(Elevation)という尊いことを実行するために、男も女も万物の霊長として犬や猫に優った働きを体にも心にも与えられて出てきたんだ。
「真人生の創造」から

人間は、
宇宙本来の目的である進化向上を助成するのが使命だ
と、
まぁこんなふうに教えられても、
はじめはなんのこっちゃわかりませんでしたけど。
わからなかったというより興味がありませんでした。
だいたいが、
日本の政治さえどっち向いて進んでいこうとしてるのか、
ろくにわかってないのに、
宇宙と自分のあいだにたいした関係性があるとも思えないし、
「使命」というような重たそうな響きのあるものは好きじゃなかったし‥‥。
それがなんと!
こんな言葉の意味が、
スッと腹に落ちるようになります。
お金を儲けて名前を売って、
おいしいもの食べて贅沢してっていうのが目的じゃありません。
そういう欲望はすべてあったにしても、
目的とか使命とかとはぜんぜんちがうで!
っていうのはハッキリ確実なんです。
宇宙は進化向上したがっている。
その欲望や力の弱い者はすでに滅んで残っていないから、
いま生きのびている者はすべてこれからも子孫繁栄したがる。
そんな「気」の流れに乗ってわたしやあなたが生まれてきた。
というより、
生物みんなが創造された。
遺伝子みんながそっち向いてる。
だからそれに順応して、
それを助成して生きていくのがほんとうだ。
さからったってムダや。
宇宙ぜんぶを敵にまわすようなもんなんやから、
しんどいのはあたりまえ。
それなら自分もやっぱり、
この宇宙の進化向上の一助になるように、
汗水たらして努力して働いて喜んでいただきましょう。
 「空」とは、無ということではない。「無」は、何もない=Nothingである。
 「空」とは、何もないのではなく、厳密にいえば、「空」とは意識感覚の線上に現出しない「有」なのである。
 いずれにしても、こうした永久不滅の絶対的の実在物である「空」なるものから、一切の万物万象が作為されているのであるが、ここで特に深甚なる注意を厳かに促さねばならぬことがある。
 それは、そもそも何であるかというに、かくのごとき尊厳な事実と過程によって作為された万物万象のすべては、いずれも一切独自的に存在するものは一つとしてなく、厳密に相互に協調して、その存在を確保しあっているという、犯すべからざる現実があるということである。
 わかりやすくいえば、もちつもたれつ、互いに助け合って調和を図りながら存在しているということなのである。
 そして、この調和が完全である間は、その物象の存在は安定しているのである。
 それから、もう一つ忘れてならないことは、その調和が、何かの原因で破れると、それをそのままにしておかないという無限の親切さが、この「空」なるものによって常住行われるという事柄である。
「叡智のひびき」から

自他一体──他人はいない

津留晃一さんは「他人はいない」という言い方をされました。
宇宙には
自分一人しかいないと。
現実だと思っているもののすべては自分を映す鏡であって、
すべてはひとつ、
自他一体
であると。
これはなかなか魂のステージの高い自覚であって、
なんとなくわかった気になっても、
また次の日にはわからなくなってしまう‥‥

くりかえします。
つらいとき、
思い出してみてください。
五臓六腑がバラバラになりそうなほど真につらいとき、
この言葉に戻る。
たびたびわたしのサイトを訪れてくださるあなたには、
さとりが必要な理由

たぶんあります。
重たい荷物を心に背負って生きてこられました。
これであなたも夢が叶えられるよ(*^_^*)系セミナーは、
きょうもあちこちで満員御礼の大盛況ですが、
残念ながらあなたは
そんなんじゃ救われない。
こんどこそしあわせに(*^_^*)っていう言葉についつい引き寄せられ、
何回も信じて何回もチャレンジしてこられたかもしれない。
30万、50万の出費なら安いほうでしょう。
そんなんで救われる人はおめでたいですね。
宗教で救われるならそれもけっこう。
変わりたくて救われたくて、
道を求めて何百冊もの本を読み、
これで変われる(*^_^*)系セミナーに
1000万円以上のお金を注ぎこむ人もぜんぜん珍しくありません。
それだけお金をかけて浄化のコツを体得したとしても、
心の重荷を
最後の1個まで下ろすまでには、
10年、20年という長い年月がかかるのがふつうです。
その年月のうちに何回か、
あっ

気づいて飛躍的に変化するヤマ場がくるみたいですけど。
どうせ浄化するなら、
重荷はぜんぶ下ろしてすっかり軽い心になりたいじゃないですか。
だから、
もしかしたらほんとうに他人はいないのかも‥‥
と、
そんな見方をしていただきたい。
──実は同じ意味のことが
天風先生の言葉の中にもあります。
天地にあるものはただ一つ。どうだい?ただ一つなんだ。自分だけただ一人あるっていうんだ。
   ***
気がついてごらん。自分を空の方面から見てごらん。天地ことごとく自己ならぬがなしとなる。それが物我一如。一列一体の心境。だから私は、あなた方を見ても、みんな自分だと思ってるんだ。
   ***
かく言う私なんかがそうだったの、最初。自分と他とを区別して、やたらと自分、むこうということを思ってたから骨が折れたんだねぇ。さっきそう言ったじゃないか。いっさいの衆生はみな我れと同じ。そうなると楽だよ。自分と他人というものは離れたものじゃないということがわかってくるもん。
   ***
自分ひとりで、やれ、うれしいの、悲しいの、やれ、楽しいの、偉いの、俺は悟ってるの、悟らないの、いや、安心してるの、安泰だの、いや、駄目だの、何だのかんだの、滑った、転んだの、これは自分ひとり、他と区別しちまってるからです。
   ***
なんでもかんでも自分ひとりというふうにしちまえばいいじゃないか。あれも俺ひとり、これも俺だと、こう思ってる。万人のためだとか、他人のためだとかというのは方便なんだから、することも言うこともすべてみんな他人のためになっちゃってりゃいいんだもん。だけど、最初は他人のためということから入っていかなきゃ駄目だ、やっぱりね。
中村天風師「盛大な人生」から

‥‥たしかにそうなんです。
自分も他人もないんだな、
ひとつなんだな、

感じられる境地がいちばん楽。
みなさんもよくごぞんじの
利他
という言葉があります。
京セラの稲森会長が好んでよく使われますので、
同じようにこれを信条に掲げる経営者も大勢いらっしゃいます。
利他利己の反対語であって
「自分の利益よりまず他人の利益」という解釈が一般的なようですが、
そこには自分と他人との区別があり、
どっちよりどっちという比較もあり、
すなわち
利己を否定する要素を妊んでいます。
利他を実践すれば、
めぐりめぐってけっきょくは自分の利益になるというのもほんとうでしょう。
そうすると、
他人の喜びのためという行為が
「けっきょくは自分のため」ということにもなってきますから、
それがわかればわかるほど利他もまた自己中心性の延長のように感じられ、
利己を戒めようとする価値観とのあいだで葛藤が生じることにもなりかねません。
仏教のほうでは自利利他という言葉もあるようです。
それもまた解釈がさまざまなので一概には言えませんが、
他人の喜びがそのまま自分の喜びだという真理を表しているのでしょう。
やっぱり、
いちばん気持ちいいのは自他一体だとわかります。
他もまた自、みんな自分。
自分のためと他人のためが同じ意味だとすれば
けっきょくは自分のためでもなんでもよいことになります。
否定すべきものはないのです。
というか、
他人とか自分とかいう分け隔てそのものに意味がなく、
めぐりめぐってけっきょくどうのこうのという話もないんです。
自己中心性を嫌悪するまえに
他人との区別そのものに意識を向けてはどうでしょう。
愛している相手の痛みが自分の痛みであることがわかれば、
「天地ことごとく自己ならぬがなし」の境地もわかってくるかもしれません。
肉体を離れた魂から眺めれば、
区別するべきものはなにもないのです。
それがわかってこないあいだは、
方便として
他人のため
っていうところから
入っていけよってことなんですけども。
自分のためでもあり相手のためでもある。
そこが自他一体という感覚の入り口になります。
相手のためと自分のためとがイコールで、
自分の喜びと相手の喜びとが確実に一体になる位置がひとつあります。
それが「いま、ここ」
自分がいちばん嬉しいかたちで相手を喜ばせることができる位置。
愛や情けや思いやりが、何物にも妨げられず、ぐんぐん湧いてくる位置。
自分のためにやっていることが決して自己中心にならない位置。
過去もなく、未来もない、いま
たったいま
all rightであると感じましょう。
いまがあって次の瞬間があるのではなく、
またふたたび、
いまと同じいまがある。
静かにすわって
すわって‥‥
It’s all right

出会うまで。
生きとし生けるものは、
神さまに与えられたオーガズム(オルガスムスとも)から、
もっともシンプルに
いま在る感覚を学びとることができるようにつくられています。
「いま、ここ」がどこか、
が、
よくわからない方は、
その位置を突き詰めてみませんか。
マインドフルネス
──知っておいて損はない、
その位置。
<他人がいない>とは、現実だと思っているすべてが、あなたの内側が反映した立体鏡に過ぎないのだ、ということです。
   ***
この現実の中には、実は自分ひとりしか存在していなくて、自分に見えるもの、聞こえるものはすべて自分の内なる世界が反映しているのだ、と決めてみてください。
   ***
あなたには、払っても払っても振りほどけない<恐れ>があります。他人が外側にあると想っている限り、あなたは<恐れ>から自由になることはないでしょう
津留晃一「多くの人が、この本で変わった。」から

はい、そのとおりです。
他人を意識しているのはエゴさんです。エゴさんだけです。
もうひとりの自分は、自分を感じています。
豊かさを感じながら感謝に満ちています。
ほんとうの自分とは、
ただそれだけでいい存在なのです。
あなたのまわりの「気分の悪い他人たち」について、
メモしておいてみてください。
雑念を注意深く観察すれば気づくはず。
いやらしい他人、不愉快な他人、意味のわからない他人‥‥

出現してきて、
あなたの想念を汚しています。
あなたを批判する他人、あなたを尊敬しない他人、
あなたとの約束を守らない他人‥‥
が、
入れ替わり立ち替わり土足で踏みこんできているのです。
そんなときあなたの知覚は
「他人が外から自分の気分を害している」と判断するでしょう。
他人は加害者で、
あなたは被害者です。
思考はたいてい直近2~3日の出来事をなぞりますから、
多くの場合、
そこに現れる「他人」は2~3日のあいだに応接した相手です。
そんな観察力がなかったころは漠然と「敵がいる」と感じさせられていました。
顔の見えない不気味な存在に脅かされていたのです。
いま、
あなたは「他人はいない」ことを知りました。
思考の中に現れてくる他人もまた自分、
自分の想いを映し出している鏡‥‥

他ならないことを知りました。
あなた自身の想念の中の汚れた部分が、
汚れた他人の存在を創出しています。
心を磨き切れていないからこうなるのです。
気づきましょう。
瞑想中がいちばんよく見えます。
雑念に混じって他人が出てきたとき、
それは十中八九、恐れからです。
自分が何かを恐れているのだと疑いましょう。
他人が何事かあなたに言葉を浴びせます。
必ずカチンくることを言うでしょう。
言われたあなたは実にいやな気分になって顔が曇ります。
ムッとする場面をわざわざ思い出さされているかのようです。
そのことに気づきましょう。
実はあなたは、
あなた自身の発した消極観念によって苦しんでいるのです。
他人を消せば、
残るのはあなたひとり。
空っぽなあなたです。
そこで心をまず感謝100%に振りかえてください。
光で闇を照らすように、
愛で満たしましょう。
「他人」は自分の「内側」にあって自分とひとつにつながっているものです。
すべてがひとつ。
これは、
しあわせなことなんです。
自分のしたいことが相手を喜ばせることになって仕事になる。
相手の喜びと自分の喜びが重なって自他一体
それは最高にしあわせなことなんです。
もっと重なればもっとしあわせ。
ぴったり重なればもう完ぺき。
愛と創造100%の理想的な生活です。
自他一体

もっと感じましょう。
誰彼なしに許し、
無条件に愛しましょう。
許せます。愛せます。
あなたは気持ちがよくなってニコニコします。
もう苦しむことはありません。
それが
心のお手入れの総仕上げです。

「他人はいない」とは、現実と思っているもの全ては、あなたの内側を反映した立体鏡にすぎないということです。そこで頭は考え始めます。「でも間違いなく現実はあるのだから、この現実の中のどこかに私を映しだす鏡の部分があるのだろう。その部分を探してみよう」と。でもこれは表面意識の考える思考の流れです。エゴは常にそう考えるのです。そこであなたのエゴはこの現実の中から鏡の部分を探し始めます。きっとあると信じて探し始めた人は、自分のまわりから、ある鏡の部分を発見し始めるようになります。
   ***
人を責めなくなり、許せるようになったあなたは「そうかこれが幻という事か、自分の心が自分を責めていたとわかっただけでこんなに楽になるなんて」と喜びます。「わかった」という思いはとても大きな喜びです。あなたの内側からわき起こる喜びの波動は、この地球のバイブレーションを引き上げるでしょう。きっとあなたのまわりを悦びの渦に巻き込む事でしょう。そんな至福感に水を差すような事になっては困るのですが、これもこの次元でのゲームであるということにどうか気づいていてください。
   ***
この喜びを現実と勘違いして、その喜びの渦に巻き込まれたままでいると、あなたの成長はそこで止まります。「自分はもうわかった」という考えが、あなたの落とし穴です。
   ***
今気付いたあなたの悟りは、この現実のほんの一部分しか反映していません。しかしエゴは一部分を発見しただけで、自分はわかったと言います。そしてこの世が幻である事を理解したと思い込みます。ところがあなたのハイヤーセルフはそうは思っていません。幻とは部分のことではありません。本当にあなたの信じている現実はありません。
   ***
もう一度言います。幻とは、全てが幻という事です。現実はありません。錯覚です。目を覚ませばそのことがわかります。「今、自分は幻夢の中にあり、幻想を現実と勘違いしているのだ」と決めてください。「この現実の中には、自分一人しか存在していなくて、自分に見えるもの、聞こえるものは全て自分の内なる世界が反映しているのだ」と決めてください。そうすればあなたの現実は本当に変わり始めます。あなたが信じていた現実は、ガラガラと音をたてて崩れ始めることでしょう。今がその時です。
   ***
「他人はいないのです」この真実を受け入れてください。あなたが全てです。あなただけが真実である事を受け入れてください。あなたがあなたの宇宙の総責任者です。他人と思えるものはあなたの被造物です。他人のことはあなたが決めてください。その人がどんな人であるか、あなたが決めてください。今まで通り、ひどい人と決める事もあなたの自由です。その人はあなたが決めた通りに振るまい続ける事でしょう。
   ***
少しの間だけ、全てのストレスの原因を自分一人に起因させてみるのです。自分が宇宙全ての根本原因であると仮定してしまうのです。こうなれば後は楽です。もうあなたは誰にも責任をかぶせることが出来なくなりますから、肝が据わります。彼に意識が向かわなくなります。こうして彼の実在が稀薄になり始めます。彼に意識の焦点が合わなくなってきて、彼から混乱させられていた現実が遠ざかり始めます。
   ***
あなたの外側に彼がいたらそうはいきません。彼を何とかしなければなりません。彼を懲らしめるための策略を練らなければなりません。彼から逃げ出すための準備が必要となるかもしれません。いずれにしても彼の事で頭が一杯です。意識の焦点が劣悪亭主に釘付けです。こうしてぐうたら亭主はあなたの中で、ますます肥大化してゆく事になるわけです。あなたの意識を向けたものが、あなたの世界に現実化されるからです。
   ***
現実だと思っている全てが、あなたの被造物です。宇宙の全ての責任をとることを決意したあなたは既に宇宙の創造主です。あなたの思考により、あなたのまわりの全てが産み出されていることに気づけるようになってくるでしょう。あなたしか存在しない世界です。そんな世界に恐れがあるはずもありません。そんな自由な世界は単にあなたが決めることによって生まれます。津留晃一さんメッセージ集「他人」より

感情を消す

ここに、
人並み外れて異常に気の短い男がいる。
1年365日、
朝から晩まで休みなく怒りっぱなし。
キレまくること十三代石川五ヱ門斬鉄剣の如し。
生まれつき血の気が多く、
救いようのない癇癪持ち。
刺激を受けてから怒りを生成するまでの速度では西日本で五指に入る。
(=`(∞)´=)
そんな男の教える感情コントロールだ。
説得力はあるだろう。
光より速い怒りの反射もこれで止まる。
もしかしたらあなたは、
怒りより恐れのほうが手ごわいことに気づいておられるかもしれない。
たしかに、
不安や恐怖のない心には怒りもない。
ただ、
日常の人間関係においては、
怒りが問題になることのほうが多いはずだ。
感情のコントロールさえ自在にできたら、
職場の人間関係がどれほど改善することか‥‥。
いやそれどころか、
人生のわずらわしさの大半はなくなるはず。
感情のコントロール
──これは巨大な課題である。
これまで感情にさんざん振りまわされてきたあなたならわかるだろう。
職場や家庭の雰囲気を明るく楽しく保つためにも、
最優先して取り組みたい巨大な課題だ。
しかもこれは、
自分さえよければいいという課題ではない。
あなたが気にかけている相手の感情が壊れたら、
きっとあなたもその影響を受けないではいられない。
だからこれはあなたの人間関係全体にとって深刻で巨大な課題だ。
怒り、恐れ、悲しみ、
これは誰にでもある。
感じないようになろうというのとはちがう。
大切なのは、
感情に振りまわされないこと。
外に向かって感情をたれ流してしまい、
まわりの人たちの感情まで汚してしまうなんてのは大人のすることではない。
負の感情は長引かせない。
その究極の処置法が感情を消すことだ。
はじめからそこにないのではなくて、
長引かせないように‥‥
引きずらないように‥‥
振りまわされないように‥‥

心の力を強めていって、
だんだんと短い時間で心を平常に戻す。
訓練が進むと一瞬でパッと消せるようになる。
魔法のようだがほんとうだ。
感情コントロールという課題においては、
これが究極だろう。
それが現実にできる。
そりゃあ、私だって人間です。
あなた方と比べてみりゃあ、あなた方より以下かもしれない。
裸にすりゃあ、へそはやっぱり一つですよ。
修行して、インドへ行って難行苦行したから、
へそが三つになったってわけじゃないんだから。
だから、私だって、
そりゃあ腹が立つこともあれば、悲しく感じることもある。
恐れることは、生涯ないとはいわないけど、あるかもしれないけど、
今まであんまりありませんでしたけど、
とにかく怒ったり、悲しむことは人並みですよ。
そんなに人を憎むってことは、
生まれてからあんまりしたことがないから、憎まないけども。
それから、
うらやましくもあんなりないけれど、
まあとにかく、とくに怒ることは、私は自分でも、恥ずかしいくらい、
のべつ怒ってたというような人生だったんです。
今でもときどき、そういう気持ちがでますよ。
こう言うと、
 「へえー、じゃあ天風、あんまりえらくないね」
 「あんまりえらくねえんだ」
 「それじゃあ、おれたちと同じじゃないか」
 「そう。同じ人間だもん」
ただ、
違うところが一つある。
どこだというと、
同じ怒る、同じ悲しむんでも、
「あ、今、天風先生、怒ったな、今、天風先生、悲しんだな」と、
あなた方に見えないうちに消しちまう。
パパッ、パパッと。
あなた方は、
怒りだしたり、悲しみだしたりすると、
そらもう派手ですぜ。
すぐ第三者に、
「あ、怒ってる、悲しんでる」とわかるようにやりだすね。
そうして、わからせたうえに、
これがまた実に、ほかのことじゃあしんぼう強くもないのに、
そういうときの感情だけは実に念を入れて長く続かせるね。
それを執着というんですがね。
中村天風師「心に成功の炎を」より

ざっとこんな感じで、
できるようになる。
いけ好かないとか憎たらしいとか、
そういう始末に悪い感情を、
「パパッ、パパッと消す」なんてことが、
あなた自身にもできるってことをまずは想像してみてほしい。
消えた感情はどこへ行くのか?
さぁそれは、
うまく言えない。
おそらくは天に昇っていったのかどうなのか。
ご自身で確かめられたらいい。
けれど確かに消える。
まるで別人の神経反射を身につけたみたいに。
それは、
あなたがさとりへ向かう旅の途中、
我執を落とすプロセスで体得できる。
文字どおり感情を消すという表現が当てはまる。
すばらしく気持ちのいい体験。
うまく言えないが、
それはひとつのエクスタシーである。
日常の訓練としては、
瞑想の習慣化を強くおすすめする。
感情を消すっていう措置は、
いわば事後処理であって、
感情がわき起こってしまってからあとの話だが、
ふだんから瞑想が習慣となり、
心機転換の息が飲みこめてくると、
感情が感情としてエネルギーを持つまえに、
意識がそれを客観的にとらえてスッと受け流すことができる。
したがって心が暴れにくくなる。
予防的な措置ともいえる。
かなり大切な原則について知っておくことも大きな助けになる。
感情とそれに従って起こす行動の関係を理解していたら、
不用意に感情を強めることを防げるだろう。
仕事や人間関係でストレスがあるとき、
「ストレスを発散する」とか「ストレスを抑える」という言い方をよくするが、
それはいったいなんのことか?
あなたがカラオケへ行って歌いまくるのは、
ストレスを発散するためか?
いっときそれで心が晴れたような気がしたとしても、
やがて同じようにまたしんどくならないか?
へたしたら、
よけいしんどくなるってことはないだろうか?
感情は発散するのもしんどいし、
抑えるのもしんどい。

消えてないもの。
ストレスはなくなっていない。
依然まだそこにある。
楽になりたかったら消してしまうしかないんじゃないか。
もしも
手品のように消せるもんなら消してしまいたくは
ないか。
‥‥と、
そんな話をしていたら、
こんな疑問をもった女性いた。

>じゃあたとえば愛する人が死んでしまったときも、
>涙を流さないってことなの?
>悲しくないってことなの?
>そんなの冷たいじゃない?
>人間らしくないじゃない?

──いや、
そういうことじゃないだろ。
なんでもかんでも「早く消せ」ってもんでもない。
泣きたいなら泣きたいだけ泣いたらいい。
悲しみは、
ちゃんとここにある。
過ぎたと思っても、
また何度でも戻ってくるくらい、
深い深い悲しみがそこにある。
抱きしめたいなら、
ずっと抱きしめてあげてたらいい。
自分のものだからな。
怒りたいなら、
好きなだけ怒り狂えばいい。
憎みたいなら、
気の済むまで憎め。
それがダメだと言っているわけじゃない。
すべてはあなたの選択だ。

>クヨクヨしててもしかたがない。
>こんなことにいつまでも振りまわされるなんて自分らしくない。
>だからもうこれ以上は長引かせない。

と、
その決定をあなたが下すんだ。
感情が豊かだとか貧弱だとかという視点とは関係がない。
冷たい人だと責められるなんて筋ちがい。
むしろ
豊かすぎるくらいだからこそ、
それをどうにかする悩みも深い。
(。・・。)
怒りや怖れ、嫉妬に憎悪‥‥
しつこいよなあ。
それはそれはもう‥‥
うんざりするくらい、しつこい。
気が変になってしまうくらい、
苦しい。
それをどうにかしたい人のための、
ひとつの処方箋が感情を消す技術。
心の調子がよければ‥‥すぐに消せる。
恐怖、憎しみ、愛、妬み、貪欲、慈愛、不安、優しさ、
といった心の産物のすべては、やって来ては去って行きます。
執着しているとき、
私たちはそれらが長く続いてほしいと思ったり、
あるいは早く消えてほしいと思ったりします。
しかし無常の法則がわかると、そんな願いが不毛なものであることがわかります。
滝を握りしめることはできません。
この真実を観察することはそれ以外の自然現象を観察するのに似ています。
法則性が姿を現してくるのを見るのは確かに楽しいことです。
   ***
最後には、あなたの個人史や学んだことをまじえることなく、
物事をありのままに見ることができます。
そうすると執着が弱まっていきます。
それは頑張らねばならないというようなものではありません。
それはただ起こるのです。
   ***
執着を真に洞察するまでは、執着を手放すことはできない。
しかし、
いったん執着の何たるかを理解すれば、
その戦いはほとんど勝ったようなものだ
   ***
ある特定のケースにおけるその消火というのは瞬間的で一時的なものかもしれません。
特定の執着が終わっただけですが、その執着は本当に消滅します。
その中でさえも涅槃を前もって少し経験することができます。
私たちは解放の風味を味わい始めます。
真の解放はすべての貪欲、嫌悪、そして迷妄から自由になることでしょう。
私たちはこの世界に住んでいますが、
もはや物事にしがみつくこともなく、押しのけることもなく、
それらから自己をこしらえることもありません。
たしかに、
ブッダが得たような完全な消滅を獲得する人は多くありません。
しかし消滅を味わうことは広い範囲で可能なのです。
消滅というのは抹殺ではないことを理解することが重要です。
修行の初期には恐怖、怒り、寂しさ、情欲といった否定的な状態に直面して、
解放されるためにはそれらを抹殺しなければならないと考えるかもしれません。
そんな類の人間ではありたくないと自我は思うわけです。
おそらく初期の頃は私たちのすべてがそんな願いを持っていますが、
その願いの中に大きな自己が存在します。
そのとき、
私たちが得たいと想像しているのは本物の自由ではありません。
それはある強迫をもうひとつの強迫と交換しただけのことです。
消滅の中には自己がありません。
それは苦しみの終わりであり、
その苦しみは物事を私だとか私のものとして執着するところからやって来ます。
もちろん消滅は痛みの終わりではありません。
身体はまだ病気になりますし、老化しますし、死んでいきます。
しかし、消滅はしがみつく心からやってくる不必要な苦悩の終わりなのです。 ラリー・ローゼンバーグ「呼吸による癒し」より

発散してごまかしちゃいけない。
抑えこんで見えなくしちゃってもいけない。
逆だ。
まわれ右。
しっかり向きあう。
憎いなら、
もうとことんその憎しみを外へ引っぱり出してきて、
じっと見つめて見つめて感じて感じて、
ゲロ吐くくらい憎み切る。
>てめえ殺す!
>このままで済むと思うなよ、こら。
>絶対に許さんぜ。

と、
口汚くののしってみたらいい。
(ここで、
津留晃一さんの「M2テクニック」を知っておくと役に立つ。
これについてはまた別の機会に触れよう。)

その憎い相手が
ナイフを握ったあなたの目の前に立っているところを
生々しく描いてみてほしい。
(ただし人前ではやらないほうがいいが。)
そんなふうにとにかく
感じ尽くすことだ。
奥へ、内側へ、潜っていこうとする感情を、
外へ、光の当たる明るいところへ引っぱり出して、
じっと意識を向けて感じ尽くそうとしていると、
感情がスーッと消えていく──
その決定的な感触を、
やがてつかむことができるようになる。
あるひとつの感じ方を、
うまく消すことができると、
もう二度と同じ感情を味わうことはない
つまり、
あなたがAという人物を憎んでいたとして、
その憎しみを消してしまうことができると、
もう二度とAに対する憎しみが湧いてくることはなくなるという意味だ。
だからといって、
Bという別の人物に対する憎しみまで消えるわけではないが、
その場合でも、
ひとつの憎しみを完全に消すことができたなら、
別の憎しみを消すことは以前よりもずっと容易になる。
こんなふうに、
あるタイプの感情を完全に消してしまった結果、
二度と同じタイプの感情が出てこないことを指して、
感情を成仏させる

表現した人がいた。
しっくりくる。
遺体を焼いて出た煙が風にまぎれて消えるように、
怒りも怖れも、嫉妬も憎悪も、
現世から消滅して成仏する。
ヤキモチも恨みつらみも‥‥、
まちがいなく自分の心から出たものだ。
邪険に扱うと
あの世から舞い戻って化けて出る。
サッと払いのけるようなまねをしてはいけない。
あなた自身が生んだ感情なのだから、
あたかも人格をもって独立した第三者のように、
できれば擬人化して接してほしい。
たとえば、
あなた自身の中のしつこい嫉妬の感情に、
「吉兵衛さん」とかいう名前をつけてみたりしてほしい。
もっと可愛らしい名前でももちろんいいのだが、
ここでは年寄りっぽい名前にしといた。
もうじきポックリ亡くなりそうでいい。
迷わず成仏してくれたら
いい。

さとりが必要な理由

必要か必要でないかといえば、
さとり なんて、
いらないものなのでしょう。
現に、
99%以上の人がそれを求めきることなく生きてます。
なくてもしあわせそうです。
それどころか、
まあまあそこそこしあわせな人ほど
さとりなどと縁がないともいえる。
なのに
経営をテーマにしたこのサイトで取り上げるのはなぜか?
生き死ににかかわる事故や病気

経験した方ならおわかりでしょうか。
さとることでしか乗り切れない極限の状態

あるからですね。
生きていられないほどの苦しみをまえに、
努力しても努力してもあらゆる解決の途が断たれたとき、
人は、
その苦しみをどうにかしないではいられなくなって、
初めてさとりへ向かいます。
いっそ死んだほうがマシか‥‥
というほどの苦しみが人生にはある。
どうにもこうにも逃れられず、
眠ることも食べることもままならず、
のたうちまわって苦しむほかはない状況。
医療の進歩の恩恵で、
身体の痛みのほうは昔に比べてずいぶんと緩和されましたが、
心の痛みのほうは相変わらず。
自分ひとりのことならまだしも、
家族、恋人、親友‥‥、
あなたの愛する者を容赦なく巻きこんで残忍な運命が襲いかかります。
しかも不運は不思議と重なる。
さとりを拓くことでしか楽になれない‥‥
ことがあるのです。
自分が死ねば解決すると思うならそれも否定はしませんが、
やっぱりちがうでしょうね、それは。
さとりあきらめることではありませんよね。
たしかに
執着を落とすことはあきらめることと似てますけどね。
人生修行の過程では、
便宜上いったんあきらめるという手段を使うこともありましょうけども、
現実にはなにもあきらめません
経営者である以上、
いかに環境がきびしくとも、
時代の変化に対応して、
経営を維持し発展させる責任があります。中小企業家同友会全国協議会中小企業における労使関係の見解より

だから中小企業の経営者ってもんは、
しんどいときほど必死で努力して
パワーでねじ伏せてしまうくらいの勢いがないとやってられない。
櫂を漕いでイカダを進めるように荒波と闘うタイプが圧倒的に多い。
「つらい」と感じるヒマもないくらい追いまくられてます。
だから100人中99人が
>さとりより運転資金をくれ!!

言うでしょうね。
しかしこれからは日本も、
経済的に大きく成長できない時代が長く続いていきますから、
経営者の資質も変わっていくでしょう。
修行なんて、
だいたい自分で決めて進む道ですから、
引き返したければ引き返せばいい。
引き返したいって思ってる時点で、
そもそもさとりが必要でないくらい、
そこそこしあわせってことなんです。
いちど悟っても、
また元どおりきれいに忘れる。
‥‥というか、
さとりにはいくつかの段階があって、
本人が「わかった」とか「これでいい」と思ったとたん、
戻ることはあってもそこから先には進まないようにできている。
おもしろいものです。
超すごい経営者の成功体験を聞いて感激して、
>よ~し!!!
>オレも今日から本気で行くでっ!


奮い立ったはよいけれど、
3日めにはプシュンと気の抜けたビールみたいになっちゃった‥‥
という情けない経験はあなたにもあるはず。
人間というものは、
本気になる必要のないあいだは本気になれないようにできてる。
スイッチが入らないようになってる。
必要のない人にはさとりはやってこない
ってことなんです。
誰しも大なり小なりはあります。
無限にあっていつでもある(ように見える)。
しかしそれを解消する手段もまた無限にある(ように見える)。
ごまかす手段もまたいくらでもある。
次々とわいてくるを、
まるでモグラたたきのようにやっつけたり折りあいをつけたり、
死ぬまでそういうイタチごっこを続けるのも人間らしくてよろしいです。
でもそれだと、
どこかで矛盾を来すように思います。
自分と社会と、
まわりの人たちと、
自分と世界と、自分と宇宙と‥‥、
やったりとったりしながら日々生活しているわけなんですが、
どうも健全な回路が形成されない。
の入りこむ余地もないくらい非常な喜び感謝の連鎖の中に、
どっぷり浸って生きていくくらいでないと、
しかもそれが自然であたりまえで余裕しゃくしゃくでないと、
相手の視点に立って物事を考えることができない。
調子のいいときは世のため人のために貢献できるけど、
自分の都合が悪くなったらそこで一時キャンセルしてしまう‥‥ような、
そんな誠意はニセ物で不良品でしょう。
部下に対する態度だってそうですよ。
赤くなったり青くなったりの心で、
感情にふりまわされながら指図していたら、
きのう言ってたことがたちまちウソになってしまう。
そんなんで健全な経営が継続できるか?
そんなふうに真摯に自問自答しているところへ、
さいわいにも死ぬほど辛い事態が畳みかけるように降ってきたなら、
そこが発心のチャンスです。
>あなたはこちらにおいでなさい。

神さまからのメッセージが届いたのだと考えましょう。
ではどこから手をつけるか。
いま現にあなたに苦痛があるなら、
それはチャンスです。
肉体の痛みよりも心の痛みならなおさらチャンス。
「つらい」でも「キツい」でも「泣きたい」でもよろしいです。
耐えられない苦しみを利用して、
その苦しみから離れてみましょう。
はじめはなんのことかわからなくても、
ほんとうの自分には痛みも苦しみも何もないのが真理なんだとすると、
>じゃあここで現に苦しいと感じている俺は
>いったい誰なんだろう?

っていう、
まるで落語の「粗忽長屋」に出てくる熊さんみたいになってくるけど、
いや実際、
その尋常ではない激痛こそ、
もうひとりの自分に出会う最高の入り口なるはず。
「痛い、痛い」と苦しみに顔をゆがめながら、
ベッドで呻いているのはあなたではないのよ。
あなたあなただと思っているその人を、
天井あたりにフワフワ浮かんでポーッと覗き見しているのがあなたです。

執着解脱の旅

いま、
こころにがある方へ。
あなたがいつまでたっても苦しい理由を言いましょう。
それはあなたが口を開くたびにを吐いているからです。
こころの汚れが口から出ているんです。
「恐れ」「怒り」が、
不平不満となり、愚痴となり、ボヤキとなり‥‥
自分の口から出るで自分の気分が黒く汚れるのですが、
あなたはそれがわかっていても口からが噴き出すのを止めることができません。
そのは、他人を傷つける以上に、
実はもっと深刻に自分自身の心をむしばんでいます。
じゃあ、
それに対してどうするのか。
ひとつ、
大切なことは「思い出すこと」です。
不安定な感情に不安定な行動が続きます。
そしてますます不安定になるという悪循環です。
生き物なら不可避ともいえる、
このような負の連鎖にしたがって生きるかぎり、
どうしても苦しみから逃れられないことはもうご承知のとおり。
だから、
意志の力によって断ち切ることのできる負の連鎖なら、
力ずくで断ち切ってこられたはずです。
エゴさんはその点、
よくがんばってくれるんです。
けれど断ち切れないまま残るのが、
あまりにも速く起こる反射的な反応です。
言葉、
特に怒りや怖れの表現です。
ムッとしたとき、あるときはカーッとしたとき、
またあるときはキリキリしたとき、
巻きこまれてしまってコントロールできません。
感情が意識の検問をすり抜けてそのまま口から飛び出ます。
究極の難題は、
感情(特に怒りと怖れ)と、
それに続く行動とのあいだに楔を打ちこむことです。
そして不用意な感情の垂れ流しを止めること、
それに尽きるでしょう。
しかしそれは、
生半可な心がけでは止めることができません。
そこに自分がいなくなるからです。
さっき心に誓ったことがもう守れません。
感情に引っぱられ、
自分というものが片時も自分本来のポジションに留まってくれません。
ほんとうの自分
とんでもなく忘れっぽいのです。
いかに自分が自分であることを忘れているか、
気づくことさえもできません。
だからまず、
日々実行すべきことの中で抜群に大事なこととして、
「思い出すこと」を習慣化してください。
あなたは他にもいろいろ実行すべきことをリストアップしているでしょうが、
それらのすべての前提として、
ほんとうの自分を、
あるいは、ほんとうの自分へ戻ろうとする心がけを、
できるかぎり頻繁に思い出すことが不可欠です。
尋常ではない忘れっぽさに対しては、
思い出す回数が半端ではいけません。
1日に5回や10回どころの話ではなく、
100回、200回、
あるいはもっと頻繁にくりかえしたほうがよろしいでしょう。
分刻み、秒刻み、
文字どおり刹那刹那に思い出せということです。
「忘れるヒマがないくらい思い出している」ことの絶えざる連続、
これが正解です。
しまいには一日じゅう忘れずにいて、
あらゆる瞬間に自分であることを目指すんです。
どんなときでも心を積極的にすること、
ニコニコ顔でいること、
自分のことばかり考えないこと、
思考を止めること、
雑念妄念を払拭すること、
思いやりを出すこと、
執着を手放すこと、
すべてを感謝に振りかえること‥‥、
そんなことのすべてを一瞬で思い出すことを一日に何百回もくりかえすのです。
マントラやお題目や祈りの言葉というのは、
そのための道具として使われてきました。
短くてシンプルな言葉をひたすらくりかえすだけで意識が横道にそれるのを防ぎます。
「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でもよろしいし、
「アーメン」でもけっこう。
「ツイてる、ツイてる」だってかまいません。
クレイジーだと思われるかもしれませんが、
それがあなたの進む道、
さとりへ向かう気楽な旅です。
もういちどくりかえしますが、
あなたが苦しいのは口を開くたびにを吐いているからです。
とはすなわち、
否定する心のことです。
否定する心がとなって口からしたたり落ちています。
を吐いたとき、
それは自分が何かを否定しているときだと気づくことが不可欠です。
自分のことであれ他人のことであれ何であれ、
否定すれば苦しくなるのです。
反対に、
あるがままを認め、受け入れ、
褒め讃えていれば楽になるのです。
大切なことは思い出すことです。
何かにつけて消極に傾き、
あれこれ否定しがちな自分の悪癖を思い出すことです。
否定する心の背後にある価値観を手放し、
ほんとうの自分へ戻ろうとする心がけを何度でも思い出すことです。
反射的に口から飛び出そうとするを、
とっさの判断で食い止めるのは至難の業だと思われるでしょう。
しかし、
を作っているのは消極心ですから、
心を掃除してそのものを消してしまえば、
少なくとも自分からが発せられる心配はなくなります。
10回、100回、1000回‥‥、
日々刻々、刹那刹那に、思い出すこと。
あらゆる外からの刺激が、
思い出すためのきっかけです。
呼吸も、
ニコニコすることも、
瞑想も、クンバハカも、
すべては思い出すための道具です。
「忘れるヒマがないくらい思い出している」ことの絶えざる連続であること。
一日じゅう忘れずにいて、
どの瞬間にも自分であること。
あるがままの自分へ還る旅です。
あなたは、
弱い自分、小さい自分、傷ついた自分を、
認めることができないで苦しんでいます。
ただでさえしんどいのに、
に負けた自分を許すことができなくて二重に苦しむことになります。
自分の吐いたに心が飛びこんだまま、
べったり張りついて、
いつまでもとらわれているからです。
あるいは、
他の誰かが吐いた言葉をだと思いこんで、
心が巻きこまれ、引きずられ、
切り刻まれてしまうからです。
他人のなにげない日常の平凡な言葉や態度にも、
いちいち価値判断
──正しいとかまちがっているとか、
良いとか悪いとか、すばらしいとかくだらないとか、
好きとか嫌いとか──


持ちこんで、
その判断にこだわって執着してしまうために、
ただの言葉や態度がに変わっていくのです。
こちらが一方向にしがみつけば相手が反対方向にしがみつきます。
そして対立が生まれます。
──が作られるプロセスです。
執着は人を、
を精製する名人にしてしまいます。
だから大切なことは、
思い出すことです。
一方向にかたよりがちな自分の性質を思い出すことです。
顔がこわばっていることを思い出すことです。
自分はもうを吐きたくないんだということを思い出すことです。
心の中にが一滴もなくなるまで心を磨きましょう。
自分は愛そのものなんだということを思い出すことです。
思い出すたびにニコニコすることです。
感謝することです。
そしてまた何度でも思い出すことです。
朝晩の瞑想の時間に、
仕事の合間の休憩時間に、
歩くときに、
食べるときに、
赤信号で、
エレベータで、
お風呂で、
トイレで、
プラットフォームで、
レジで‥‥、
思い出して、思い出して、
また思い出すことのくりかえしです。
勝ち負けに執着しているぞ、
効率を上げることに執着しているぞ、
お金を儲けることに執着しているぞ、
なんかおかしいぞ、
しかめっツラになってるぞ、
不安にあおられて生きているぞ‥‥
と、
思い出すことです。
1日に50回も100回も思い出すことです。
いちど思い出したら次にまた思い出すまで、
思い出したまま生活するように努めることです。
真剣にそれを実践することです。
そうすれば、
だんだん忘れる暇がなくなってきます。
それはつまり、
ずーっと気づいているということです。
ずーっと感じとれているということです。
目覚めていることです。
意識的に呼吸することです。
クリアであることです。
全方向に対して注意が振り向けられていることです。
マインドフルであることです。
刺激に対して準備OKってことです。
それが「いま、ここ」にいるということです。
「いま、ここ」にいるとは、
執着の反対側にいることです。
けっきょく、
執着との距離を置くために、
はっきりした気持ちでいることが大切なのです。
気づいていることが肝心なのです。
平和に住まうことが必要なのです。
初歩の修行は、
執着の予兆に早く気づくためにあります。
何事があろうと心がそれに引きずられないこと──。
それは手段であり、
同時に目的でもあります。
生活が修行、
修行が生活なのです。
いちいち思い出さなくても、
魂が勝手に覚えていてくれるまで続く修行‥‥。
どんな代償を払っても、
それは挑むに値する道のりです。
荷物をまとめて、
旅に、
出ましょう。
どうしたら、瞑想を、
瞑想センターから、台所や事務所に持ち出すことができるのでしょうか。
  * * *
一日に一時間の瞑想をすれば、
その一時間が、ただの一時間でなく、
二十四時間のすべてになるべきです。
  * * *
一つの微笑、一つの呼吸が、
ただその瞬間だけでなく、
その日の全体に、良い影響を与えるべきです。
  * * *
坐ってする実践のときだけに、
みずからの認識や感情に対処するのではありません。
いつも、
対処しなければなりません。
  * * *
電話をかける合間に、
あなたは意識的な呼吸を行っていますか。
にんじんを刻みながら、
微笑していますか。
  * * *
日常の生活にどのように対応するかが、最も大切な問題です。
毎日毎日のごく平凡なことについての、
みずからの感情、
話し言葉にどのように対応するかが、
まさしく瞑想なのです。
ティク・ナット・ハン師の著書「ビーイング・ピース」から

我執を落とす技術

2010年8月をもって閉じられてしまったようなのですが、
それまでの数年間、
「濁川の仏教&人生論ノート」
というサイトがありました。
濁川(だくせん)さんは後に全休さんと名前を改められ、
「聞其名号信心歓喜」
という別のサイトを始められたようです。
以下の引用は、
かつて「濁川の仏教&人生論ノート」 に書かれていた文章からの抜き出しです。
書いたご本人はポイと捨ててしまわれたのですが、
もったいないのでわたしがコソッと拾っておきました。
あ、
念のために申し添えておきますが、
わたしは仏教のことなんてほとんど知りません。
知りませんが、
ここに書いてあることがどれだけ鋭いかはわかる。
完ぺきに正確かどうかと言われればそこまではわかりませんが、
ほとんどほんとうだとわかる。
きっとみなさんのお役に立つとわかる。
だから、
捨てられて忘れ去られてしまうには惜しい。
でなかったら、
勝手に拾って勝手に文字装飾してまで紹介したりしませんて。
(※原文には文字装飾はありません。)

 身体と、その身体の内側(主観)で起こっている欲求や感情、考えや気分といった心理的な現象を、わたしたちは「自分」だと思って生活しています。思いが活発に起こっていることが生きている証拠であり、思いを実現することが生き甲斐、そして、頭に浮かんだ思いを実現する場所が社会(世間)であり、自分の人生だということになっているのでしょう。
 **
 わたしたちが、生きる動機、目標、意義、価値としているところの本能や欲望、野心、これを自分だと誤解して、執着することを「自我への執着」と言います。この「自我への執着」が、心の悩み、人生問題をとめどなく再生産している根本原因なのだと、仏教は教えています。
 ですから、“思いは本当の自分ではない”と知る“無我”の体験、これが仏教の伝えようとしているすべてだと言っていいと思いますが、この“無我”を知る体験を蓮如は「信をとる」と言っている訳です。
 **
 わたしは、仏教の教えは実に簡単だと思っています。すなわち、心の悩みをつくっているのは、対象に対する“執着”で、その執着を捨てれば、心静かに生活できますよ、と。たった、これだけのことを言っているにすぎないのです。
 **
 仏教は極めて科学的だと感じます。すなわち、【問題】には必ず【原因】があると考え、原因をつきとめ、【対策】を施せば、問題は【解決】する、と。その解決策が多く(または、すべて)のケースで有効であると証明されれば、これは立派な科学ではありませんか。神頼み(仏教だから、仏頼み?)なんて非科学的なことはしないのです。苦をつくっているのは自分(自業自得)だからです。
 仏教とは、執着(我執)を落とす「技術」(ノウハウ)であるというのが、わたしの仏教理解の基本です。よって、神秘的なものなどなにもありません。
 **
 【問題】とは悩みであり、【原因】は執着、執着をなくす【対策】を施せば、悩みのない心静かな生活、すなわち涅槃に入り、すべての問題が【解決】する。この治療方法(執着を落とす技術)は、どの患者にも100%再現可能な、有効な科学的な方法であると思うが、いかがでしょうか。
 仏教とはなにか、これがわたしの理解です。宗教という言葉のもつ、なにやら怪しげな気配は一切ありません。「我執」という死に至る“癌”を治療する科学的な医療技術くらいに思ってもらうとよいのでしょう。
 **
 わたしたちは、物と心に執着しますが、物への執着は比較的、落ちやすいものです。しかし、経験的にも、心の現象に対する執着(我執)は、なかなか絶ちがたいものです。真宗では、この我執を「自力の心」と呼んで、この我執との闘いに勝利することを仏道の中心に据えています。
 **
 では、人生問題(心の悩み)をつくっている心の癌「我執」とは、どういうものなのだろうか。仏教は、この我執を断つことで、悩みのない平和な生活、すなわち涅槃(執着のない心境世界)に入ると教えています。
 **
 心(しん)とは、それこそ数え切れない要因が集まって、今の心理状態を生起してくるわけですが、ほんとうは、どの要因にも、まったく必然性がないのです。
 ところが、この偶然のよせ集めの心理状態に対し、意(末那)は、これこそオレだ、オレだと思い固めています。そして、この意(末那)の管理のもとに、私の、はなはだ主観的なる分別作用が働き、それによって行動しているのが、現在の私です。
 とすると、この今の私というのは、いかにも、はっきり決まった私であるように思っているわけですが、その根本はといえば、まったくの偶然のよせ集めでしかなく、つまり根本について、何が、何故、如何にしてなど、まったく明らかでないので、仏教はこれを無明(あきらかでない)といいます。
 つまり、われわれは、いつも、偶然のよせ集めから生起した能力を「われ」と思い、この「われ」の物足りようの思いで一切を片付ける心識(あたま)こそ、われの主人公だと思いがちですが、じつは、心識(あたま)は、ほんとうの自己のいのちの主人公ではありえないのだ、ということです。
 われわれの心識(あたま)からは、何の理由がわかりませんが、いつもむらむら思いが立ち昇ってきます。そして、その思いは、まるで映画かテレビのようにまざまざと一つの世界を展開してみせるのであって、われわれは、いかにもこれが現実であるかのように思えてきてしまうわけです。
 しかし、じつは、もともと心識(あたま)は、われわれ生死する肉体的生命の一器官なのであり、そして思いとは、いわば、心識(あたま)から沁み出してくる分泌物です。
 心識(あたま)の分泌物たる思いをもって、生命そのものの指導原理とすることは、大いなる転倒、倒錯であるとしなければならないでしょう。
 人生の根本姿勢は、生死する生命の真実から決定されてこなければならないのであって、けっして、心識(あたま)の分泌物たる思いによって決定されてはならないものです。
 **
 実は、さとりには、二つの意味がありました。たびたび触れていますように、一つは、人生問題をつくっていた心の悩みの原因は我執にあったという事実を知るということです。我執を“離れる”ことによって我執を“知る”という、これが仏教の知り方の特徴です。
 もう一つは、これがあるために仏教は宗教だと言われるのだと思いますが、今まで“自分”だと思っていた自我は実在せず、むしろ、自我を虚妄だと「自覚する主体」を発見するということです。
 この自覚する主体、心を離れて心を見る仏眼を初めて知るのです。これを「本当の自己」と呼んだり、臨済宗では「一無位の真人」、真宗では「如来」と言ったりします。人間の心を見渡し、虚妄と自覚する主体、この目に見えない「如来」に出会うという体験が、信仰を成り立たせているものです。
 観念でこしらえた神仏を信じることで人生の悩みから気持ちをそらせ、気持ちを楽にさせるのが宗教だ、くらいに思っている人は多いと思います。また、お経に描かれている浄土のことも、お伽噺のように思っている人がほとんどでしょうが、無我を知れば、すべて“事実”だと知るでしょう。
 **
 では、自我は実在しないと、どうやって知るのでしょうか。こればかりは、本を読んで、あぁ、そうか、とばかりにはいかないでしょう。“頭”の妄想を落とすのに“頭”を使ってするわけにはいきません。妄想に妄想を加えるだけでしょう。頭を使わない、頭を捨てる、頭を離れる工夫が必要です。
 頭という病根を切除する外科手術の方法を、仏教は用意していますが、その前に、我執が起きる頭の仕組みをもう一度、復習します。
 **
◆我執が起きる頭の仕組み
  1. 数え切れない要因が集まって心理状態が生起する。
  2. どの要因にも、まったく必然性がない。
  3. 必然性のない心理状態を、オレだ、オレだと思い固める。
  4. 肉体の一器官の心理状態にすぎないものを“主人公”にすえる。
  5. この主人公の物足りようの思いを“絶対”とする。
  6. 頭の思いを指導原理とする倒錯した人生が始まる。

 **
 思いを、頭の中から沁み出してくる分泌物と見渡し、思いの影響を受けないようになるには、一度、思いを離れる(離念)体験をする必要があります。その方法として仏教は、瞑想を薦めています。瞑想とは「心を観察」することです。
 心を観察するとは、頭(心)につぎつぎと湧いてくる思念、感情といった思いをただ、「自分の心とは思わずに」窓から景色を眺めるように、空に浮かぶ雲でも眺めるように眺めて、なにも手出ししない(すなわち、思いに取り憑いて行動を起こさない)ことです。いいとも、悪いとも判定せずに、他人ごとのように、ただ眺めている。心に湧いては消え、消えては湧く思いを、湧くまま、消えるままに放っておくのです。これにはちょっと訓練が必要です。
 **
 総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。此の心にて、世間には、物も仕習うなり。仏法には、無我にて候ううえは、人に負けて信をとるべきなり。理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり。(真宗聖典「蓮如上人御一代記聞書」)  救われない凡夫としての自覚に徹すること、すなわち、「地獄に堕ちるは自分、救うは仏」とばかり、如来に一切をお任せせよと言われても、一切の努力を止めることは“至難”のことです。「総別、人にはおとるまじき、と思う」て、世間を生きている人間にとり、努力を止めることは、「人に負けて」人生から転落することを意味します。負けまい、負けまいとして生きている人間に、努力はいらない、仏が救うと言われても、努力を止めることは、死ぬに等しい恐怖なのです。
 如来を頼る心(他力=無我=無執着)になりきれないのは、自分の力(自力=エゴ=努力)でなんとかなると思っているからです。自我にとって「人に負ける」とは、努力をしないことを意味し、努力しない、すなわち執着しないということは死を意味します。禅宗に「大死一番、絶後蘇息」という言葉がありますが、真宗において「負ける」とは、自力無効、自我の死を意味します。
 **
 ストレスに慣れた現代人はなにより、人生に悩みがあるのは当然だと思っているようですし、ストレスを逆にエネルギーに変えて、などと訳のわからない世迷い言を言いながら、それを克服していくのが自分の甲斐性くらいに思って、終わりのないストレス生活(地獄道)に落ちていくのです。
 考えてみれば、現代人は、科学的な知性と技術、物の豊かさを誇ってはいても、所詮は、欲望にこき使われ、野心に追い立てられ、緊張と焦燥、不安と恐怖に落ち込み、ストレスを発散するために、さらに狂ったように物を消費し、セックスを享楽する、放恣な欲望生活(畜生道)に落ちているのです。
 仏教を学んでいる人ですら、お経に描かれた極楽浄土の世界をお伽噺くらいに思っているのですから、仏教に縁のない現代人に、心配や不安や恐怖のない、一切のストレスから解放された、自由でのびのびした安楽な生活(極楽浄土)があるなんて、とても信じられないことでしょう。
 **
  1. 思いの通りにならないことを「苦」といいます。
  2. その苦の原因は、思いに対する「執着」です。
  3. 思いに執着するのは、「思いは自分」という誤解があるからです。
  4. その誤解が解けることを「さとり」といいます。
  5. さとれば、思いに対する執着がなくなります。
  6. 執着がなくなれば、苦がなくなります。
  7. 苦がなくなると、心配・不安・恐怖がなくなります。
  8. 心配・不安・恐怖のない生活を「極楽」といいます。
「濁川の仏教&人生論ノート」より